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愛善の光/
 信仰と心の安息

人類愛善会三代副総裁 出口日出麿(でぐち ひでまる)
(1897〜1991)

 上は王者より各大臣、各長官は、内的にはそれぞれ相応の宗教家で なくてはならない。それでなくては、真に神意を地上に行なうことはできない。


 思想的ノアの洪水だ。
 真の信仰のみが方舟だ。


 そうだ、信仰は生命がけだ。
 理論の遊戯ではない。

 
 自分を、いと小さい者、足らない者と省み悟っている人は、かならず、神から憐みを受ける。 真の信仰境にはいった人には、きっとこの心が起きる。
 他人を責めたり、世をうらんだりする間は、まだまだ世間なみである。


 人間が、現界だけを基本としていっさいを考察するのは無理もない。知ることのできない世界、知ることのできない法則だけを頼りにすることがどうしてできよう。

 実をいうと、人間は人間であったらよいのだ。神から作られ、神から与えられて性能を十分に発揮さえしたらよいのだ。名位寿富を対象として、正当に働いたらよいのだ。(中略)

 ただ信仰だけは得ておかねばならない。信仰というのは、けっして、ある形式的な宗教にはいれというのではない。また、必ずしも他の人と同様な信念を得よというのでもない。自分は自分としての確固たる信念だけは築きあげておかねばならないというのである。
 信仰のない人には、心の安息はない。心に安息のない人には、毎日、暴風雨の前兆と地震の恐怖と火事の幻とがあるばかりだ。



 信仰はどうして得るかというと、現界では、まず、何かの不満、不平、不審などが始まりで、自分というものが、いかに小さく無力であり、自分の力ではどうすることもできないということを心の底から悟って、この世を如実に支配しているものに頼りたいという気になることが第一歩である。

 この世を如実に支配している、目に見えない神の存在を確認するまででも相当にかかる。しかし、人間的理知以上のものを、人間的理知によって解釈しようとしたところでとうていだめだ。とにかく、ただ、不思議な活きている力がわれわれを支配しているということさえ悟れたらよいのである。

 信仰は要するに信じることだ。信じることは、真と見定めることによって生じる。真と見定めるということは、外的に知ることではなくして、内分的に悟ることだ。


 信仰も、はじめから徹底するわけにはいかない。つぎつぎに心境の修練をへたうえでなくては、不退転の信とはなれない。が、とにかく、神へ近づこう、光をつかもうという熱望さえあれば、自然に神さまの方から、よい方へ必ず導いてくださるものである。



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