愛善の光
度量を広くして生きる
人間活動の根源は感情である。そして、この感情の中には、
神に属しているものと獣に属しているものとがある。
理知はこの両者を区別して、つねに神に向かって進ませる目付け役である。
ゆえに、理知の足りない人ほど迷いやすい。
しかしながら、理知をもっていっさいの感情を支配しようとするのは大いなる誤謬である。
こうすることは、人間を神の支配から離れさせようとするもので、
真の惟神の大道(天地自然の心理)に、まったく、違反しているのである。
要するに、理知はどこまでも感情の目付け役である。
このようにして感情は無限に、より深く広くなっていくものである。
これが人間の進歩であり浄化である。
感情は理知によって、より清純にされ、理知は感情にしたがって、より深く広くなっていくのである。
ゆえに、理知なき感情も、感情によらぬ理知も、ともになんらの価値はない。
感情のゆたかな人は理知も豊かであり、のんびりしたところがある。
感情のけわしい人は、理知も、したがって険峻でこせこせしている。
感情は内であり、本体であり、理知は外であり、型であり、完成である。
無限の感情があるように無限の理知がある。
感情のみを尊んで、理知をいやしむのもよくないし、
理知のみを重んじて感情を軽んずるのも、むろん悪い。
内即外であり、情即理であるから、両方そろうべきはずのものである。
しかし、本質的には、情の方が主であることはもちろんである。
世には、自分にとって、直接に利害関係があるもの、親子、夫婦、兄弟、親戚、友人、
同国人などに対しては、極端な愛情をそそぐ人があるが、利害相反するものに対しては、
これを仇敵視する人々が多い。これは、神の道からいえば、
よくないことで、その人の性情が偏頗であるということ、
すなわち、その人の持つ霊的領域がせまいということになるのである。
しかし、面積はせまくても、愛の度が極端に強いならば、高度はひじょうに大といい得る。
広い方は、どうしても高さにおいて劣るのはまぬがれない。
人間はちょっとしたことに悲しみ、ちょっとしたことに喜ぶものであるから、
ちょっとしたことを注意しなければならない。
自分の過去をふりかえってみても、何かにつけて「ああもうだめだ」と思ったことが何度あったか知れない。
しかも、無事に今日にいたっているのだから世話はない。
そのときは「どうしたものか」と思いわずらったことも、
すんで、あとから考えれば、
「なんだ、あれくらいのことを心配するにもおよばなかった」と思いがちのものである。
われわれは、もう少し度量を広くして、
草紙に手習いするくらいなつもりで、どしどし人生を突貫すべきである。
出口日出麿・著 天声社・刊 『生きがいの探究』から
|