愛善の光
合掌する心になる
素直に気持ちを変えることができるか、
できないかが、信仰のある人とない人のちがいなのかとおもいます。
そのちがいは、ほんのわずかなようであって、
たいへん距離のあるものということを、今日は、まざまざと知らされました。
つねに信仰していない人は、理屈だけわかっていて、その心境になりきれません。
一日いても、同じこと(愚痴)ばかり繰り返していて、いくら知恵をしぼってお話ししても、
その話に納得がいくけれども、いざ心境がついてゆかないのです。
"信仰はまさかの時の杖(つえ)"と祖母がよくいっていましたが、
ほんとうにそうであることを、今日はっきりと知らされました。
○
学問があるからといっても、信仰はすぐわかるものでもなさそうです。
自然に、抵抗なく入れる生まれつき素直な方もありましょうけれど、
学問もないくせに、私などは、長い間かかって疑ってみたり、肚(はら)を立ててみたり、
背いてみたりして、長いことかかって、自然になにか心に感じてきたとおもいます。
なんでもよいから、お委(まか)せして礼拝をすることから始めるとよいということですが。
祝詞(のりと)をあげるのが恥ずかしければ、
黙祷(もくとう)するだけでもよいのではないでしょうか。
なにか目標がないといけませんから、東の空でもよろしいでしょう。
よく昔の老人がお日さまを拝んでいますが、あれもよい姿です。
ともかく合掌する心になることは、美しくよいことだと思っています。
信仰をつかむという考え方は、私は好みません。
早くつかもうと焦(あせ)っても、つかめるものではないようです。
やはり時節がいるようです。
○
人間は、何にすがって生きていけばよいのでしょう。
よく考えてみれば、たのむべからざるものを、頼りにしていることもあります。
私は、かつて、世間的に頼りとするすべてを失い、
人間の力ではどうにもならない苦境におとされたことがありました。
そんなとき、たのむものは、神さまと自分より外になくなりました。
自分にはどうする力もないことがわかると、
人間として精いっぱいなすべきことをなしたあとはただ、大きな力の前に拝するだけでした。
絶体絶命のところに追いこまれ、真剣にお祈りさしていただくことができて、
神秘というものにふれさしていただいたと思っています。
以来、ふだんには、私の気持ちは神さまの近くにいることもあり、
遠くはなれていることがあっても、根底においては安心して、
いつも、神さまといっしょに歩ましていただいていると思えるようになりました。
出口日出麿・著 天声社・刊 『生きがいの探究』から
|