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愛善の光
 

人類愛善会三代総裁 出口 直日(でぐち・なおひ 1902‐1990)

教育私見1
『こころの帖』(天声社刊)より

省みる心をよびさます
  専門の教育家でもなく、それに、教育について研究したこと もない私の教育についての考えを、人に語るなど、おこのかぎりですが、母親の立場から考えさせられる機会はひんぱんに あり、その意味で、今の教育に思う一、二、をのべてみます。  


 ときどき新聞の社会面に、先生が生徒をなぐったことで、父兄たちが問題にしている事件が報道されています。それらの中には、なるほどと思われるものもあり、また、一般に「先生が生徒をなぐるなど、もってのほかだ」という考えで、必要以上にさわいでいる感じをうけるものもあります。

 先生の中には、まれに狂暴性をおびた方もあるらしく、そうした先生の発作で、子供がいためられるようなことがあってはなりません。極端に短気すぎるとか、教育家としてふさわしくない性格の方も、中にはまじっておられるかもしれません。

 そうしたことは特異なことで、ふだんの先生との接触において注意をし、事件を未然に防ぐことが望ましいと思います。

 けれども、先生が生徒をなぐったからといって、そうした事態のおきた事情をよく調査もしないで、いつの場合でも先生のみが批判され、排斥されなくてはいけない、というのはどういうものでしょう。

 子どもの自発性を尊重する近代教育の精神から派生したものでしょうが、先生が生徒をこらしめることは、いつの場合でも許されない、という鉄則を構えることは行き過ぎではないかと思います。

 むかしから「愛情の鞭」という言葉もあるように人間は性善であり、一面に性悪である―この両者の相交わって、しかもその本来は性善であるべきものと思われます。ですから、その時・所・位によって、愛は鞭となることがあっても、当然ではないでしょうか。この理は、人間の性質がどのようなものであるかを考えてみれば、うなずけるものではないかと思います。

 人間の性質を見るには、大人の場合よりも、子どもをよく見ればわかるようで、子どもはその姿をかくさずにあらわしていましょう。


 こういう話があります。

 アメリカでは、日本よりひと足先に、子どもをおさえつけたり、強いたりしない教育が行われて、 「子どもの日」には子どもの思うがままに伸ばしてやることになっているようです。
 その日はデパートも子どものための催しをしていて、一人のお母さんが子どもを遊ばすために連れきました。
 子どもはおもしろくて夢中になって遊んでいましたが、デパートの閉店の時間が近づき、お母さんは 「もうやめましょう」といいました。
 けれども子どもは聞こうともせず、遊びほうけています。
 むりもないことです。
 そのうち閉店前のベルが鳴りました。
 それでも遊びをやめようとしません。
 お母さんはデパートの定員にたのんで、子どもにいいきかせてもらいましたが、子どもはいっこう聞こうとは しません。
 たまりかねて、その日、デパートに設けてあった児童相談所に事情を話しました。
 そこには児童心理学を専攻している先生がいて、母親の話をきいてくれました。
 その先生は、子どものところへゆくと、お母さんや店員を先に出してしまいました。
 子どもと二人きりになると、先生はこういいました。
 「もう、よいかげん出てゆけ」と。
 先生のこの声をきくと、子どもはかんたんに外に待っている母親のところにあらわれました。
 先生は母親に―叱っておきましたよ―と、子どもの出てきた理由を話したというのです。


 この話は、何か考えさせるものがあります。

 子どもに限らず人間は、限りない欲望を一方にもっているのです。ことに子どもは欲しいものがあれば、どこまでもそれを手に入れようとします。そして、それがかなえられると、もう一つの欲望へと、ずんずん拡げてゆくものです。そこで、限りなく拡がる欲望に対する判断と、それを抑える力を与えることが必要です。

 それには、年齢や環境からくる心理的状態に応じて、人間が本来もっている省みる心のはたらきを、よびさます必要があります。そのためには、さまざまの方法が、その状態に即応されるべきであり、ときには鞭をふるわなければならないことが、適当な方法ともなりましょう。

 実際に子どもを見ていると、子どものなかには、やさしくしているとつけあがる性があります。これは同時に人間というものがもっている性で、子どもには、こんなにやさしくしてもらっているが、こうしたことは、してはいけないという気持ちは、大人に比べて低いようです。子どもは相手が甘いとみると、じきになめます。そういうときには、ピシャッと厳しくしたほうが、子どものためによい結果をもたらします。

 けれども、人間には、生まれつき利発な人もあります。うまれつき謙虚な性格の子もあれば、生まれつき大人もおよばない反省心の強い子どももいます。それは十人十色に違います。ですから、教育には形式論が一番禁物です。どんなによい教育の理論にしても、それが形式論になってしまえば弊害が生じます。十人十色といい、しかも、この一色一色が生きた人間ですから、教育の方法はつねに流動性がなければなりません。

 日本の教育は、終戦後、アメリカの指導で行ったものと聞きましたが、日本の教育遺産について見直さなければならない反省期にきているように思われます。

 それは、アメリカの国情がもつ歴史的・地理的背景と、日本のそれとは違うからです。 それを考えないでいたところに、形式化に陥った原因があったのではないかと思われます。
(昭和33年2月)  


=次号に続く=



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