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芸術は宗教の母なり
芸術と宗教とは、兄弟姉妹の如く、親子の如く、夫婦の如きもので、
二つながら人心の至情に根底を固め、共に霊最深の要求を充たしつつ、
人をして神の温懐に立ち遷らしむる、人生の大導師である。
地獄的苦悶の生活より、天国浄土の生活に旅立たしむる教導者である。
ゆえに吾々は左手を芸術に曳かせ、右手を宗教に委ねて、
人生の逆旅を楽しく幸多く、辿り行かしめむと欲するのである。
矛盾多く憂患繁き人生の旅路をして、
さながら鳥謳い花笑う楽園の観あらしむるものは、実にこの美しき姉妹、
すなわち芸術と宗教の好伴侶を有するがゆえである。
もしもこの二つのものがなかったならば、
いかに淋しく味気なき憂き世なるか、想像出来がたきものであろうと思う。
人生に離れ難き趣味を抱かしむるものは、
ただこの二つの姉妹の存在するがゆえである。
そもそもこの二つのものは、共に人生の導師たる点においては、
相一致している。しかしながら芸術はひたすらに美の門より、
人間を天国に導かんとするもの、宗教は真と善との門より、
人間を神の御許に到らしめんとする点において、
少しくその立場に相違があるのである。
形、色、声、香などいう自然美の媒介を用いて、
吾人をして天国の得ならぬ風光を偲ばしむるものは芸術である。
宗教はすなわち然らず、霊性内観の一種神秘的なる洞察力によりて、
直ちに人をして神の生命に接触せしむるものである。(中略)
美の理想を実現するには、まず美の源泉を探らねばならぬ。
その源泉に到着し、これと共に活き、
これと共に動くのでなければ実現するものではない。
しかしてその実現たるや、現代人のいわゆる芸術のごとく、
形体の上に現わるる一時的の悦楽にあらず、
内面的にその人格の上に、その生活の上に活現せなくてはならないのである。
真の芸術なるものは生命あり、活力あり、
永遠無窮の悦楽あるものでなくてはならぬ。
瑞月はかつて芸術は宗教の母なりと言ったことがある。
しかしその芸術とは、今日の社会に行わるる如きものを言ったのではない。
造化の偉大なる力によりて造られたる、天地間の森羅万象は、
いずれもみな神の芸術的産物である。
この大芸術者、 すなわち造物主の内面的真態にふれ、
神と共に生き、神と共に動かむとするのが、真の宗教でなければならぬ。
瑞月(初代総裁)が霊界物語を口述したのも、
真の芸術と宗教とを一致せしめ、以て両者共に完全なる生命を与えて、
以て天下の同胞をして、真の天国に永久に楽しく
遊ばしめんとするの微意より出でたものである。
そして宗教と芸術とは、双方一致すべき運命の途にあることを覚り、
本書を出版するに至ったのである。
(『霊界物語』第 巻総説より抜粋)
肉眼や尺度で神を知ろうとすることは愚かなことである。
聖人の言を信じ、聖典の教えを尊ぶ人には、
野に咲いている一片の草花にも、空を飛んでいる一羽の鳥にも
神の力と愛をありがたく感得することができるものである。
神の存在を否定する人々に難しい理屈は禁物である。
野に咲いている百合の花を見せて、もしその人が「美しい」と
言ったらそれでよいのだ。
その人は十分に神の存在を知っている人である。
すなわちその人は理屈で神を否定しながら直感で神の存在を知り、
肉眼で神を見ないがすでに、
魂のドン底で神のささやきを感得しているのである。
(『惟神の道』より抜粋)
神様がわからないという人に、一本の花を見せてやれ。
これでも神様がわからないのですかと……。
たれがこの美しく、妙なる色香をもった花を造るのであるか。
同じ土地に播いても種が違えば、千紫万紅色さまざまに咲き出でて
得もいわれぬ美しさを競うではないか。いったい誰がそうするのか。
花を作る人はただ世話をするに過ぎないではないか。
これでも神様が分からないというのなら、よほど頭の悪い人である。 (『水鏡』より)
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