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愛善の光
 

人類愛善会初代総裁 出口 出口王仁三郎(でぐち・おにさぶろう) (1871‐1948)


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公平無私な神の愛

 何故に愛善会が出来たかと云いますと、私が大正十三年の旧正月にモンゴル入りを致しましたが、 モンゴル・中国その他の国の状態を考えますのに、今の総ての国民は疲れ切っている。 そうして道を求めて道がなく、生活には脅かされ、 又色々な暴力の圧迫に苦しみ弱肉強食の状態を呈して居るのを、 まざまざと見せつけられたのであります。 それで、これは世界万民が一つの兄弟姉妹となって、同じ道に進まない事には、 この世界の平和幸福を来たす事は出来ないと、深く感じた次第であります。

 いずれの国民も、言葉は通じなくとも―個人々々と交際して見ると、我が同胞も、 モンゴル人も、中国人も、朝鮮人も、同じ心持をもって交際が出来るという事を深く覚ったのであります。 個人としては、世界各国民共に我が同胞と同じ様になれますが、 国際間としては、国際問題が起ると、どうしても世界一般の為にと云う心がなくして、 自分の国の為にという精神が起きて来る。 これは、いわゆる自己愛というものであって、本当の愛善ではない。 要するに自己愛の愛悪になって来るのである。

 今日の世の中は、互いに鎬をけずって居りますが、「国家の為に国家の為に」と各自に云うて居る。 これを「世界人類の為に」と云う様にならねば、世の中に本当の平和は出来ぬのであります。

 エスペラントの精神は、言葉が通じないが為に要らざる争論が出来、 衝突が出来て、世の中に紛乱が絶えない。それ故に言葉を統一したいと云うので、 ザメンホフ博士がエスペラントをこしらえたのでありますが、 その精神は言葉でなくして、本当の目的は、人類愛善にあったのであります。

 しかしながら世界は中々広いので、どれ程努力しても五年や十年では、 本当の完成を来たす事は出来ないのである。われわれは、どうしても人類愛善でなければ、 この世界の本当の平和・本当の幸福は求められないという事を感じましたが故に、 モンゴルから帰る早々人類愛善会なるものを創立したのであります。
 愛すると云うても、これは本当の高所大所から見て、 人類というものを本に置いてやらなかったならば、偏狭な愛になり、自己愛になり易いのであります。 愛善という事は神の愛であって、極く公平無私な一つも無理のない愛を愛善と云います。
今日の「愛」というているのは、大抵愛悪であります。 故に愛善会員は、愛善の精神を以て、天地を浄化する事に努められん事を希望します。

 私がモンゴルに行ったときに、モンゴル人にも接し、中国人にも接し、 又銃殺にも遭いかけ、油かけて焼殺されようともしましたが、 それでもその時の官吏・監視人・警察官は、個人としては、非常に親切でありました。
これを考えますと、この人類愛善の精神が徹底したならば、 こちらのものが本当の人類愛善の精神をもってかかったならば、いかなる国の国民も手をつないで、 兄弟の如く姉妹の如く世の中は太平に治まるものと、私はかたく信じて居るのであります。 故に国民同士が鎬を削り、互に悪み争う様なことは、実に人類愛善の精神上、矛盾した事と考えるのであります。
 どうかこの精神をもって、愛悪にならぬ様、偏狭愛にならぬ様に、 自己愛にならぬ様に、国民といわず、世界人類一般に向って働きかけてもらいたいと思うのであります。

                      (『真如の光』誌、昭和 年8月号から抜粋)



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