誰にでもわかるパレスチナ問題(その10)
「キャンプデ-ビッド合意」
NPO法人大本イスラエル・パレスチナ平和研究所
主任研究員 矢野裕巳
(その1)
(その2)
(その3)
(その4)
(その5)
(その6)
(その7)
(その8)
(その9)
(その10)
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(その62)
(その63)
(その64)
(その65)
1977年11月エジブトのサダト大統領は、エルサレムを訪問。クネセット(イスラエル議会)で演説をおこない
イスラエル国民から熱烈な歓迎を受けました。過去4度の大きな戦争の相手、イスラエルにとって宿敵である
エジプト大統領のイスラエル訪問はあまりに衝撃的であり突然でした。
当時ロンドンで学生生活を送っていた筆者
も26年前学生寮のテレビ室でサダト大統領の演説をライブで見ていました。中東からの留学生が興奮してこの話題
を語るのを聞きながら、当時の私はこれは大変な事なんだなあと思ったぐらいでした。
突然に思えたサダトの訪問も、
当然これは水面下の交渉の結果でした。モロッコが重要なパイプ役を果たしたのでした。
モロッコはアラブの國ですが、イスラエル建国後もユダヤコミニティの生活を認めていました。アラブ世界からの
大反発を覚悟でのサダトの決断は次のような理由からでしょう。
1、戦力的にみて、イスラエルはアラブ側より強力であり、軍事力でイスラエルを抹殺することは不可能と判断する。
特にイスラエルは1960年代より核兵器を保有しており、追い詰められれば、國の破滅より核の使用を選択するのは
確実である、と判断した。
2、イスラエルに対抗する為、国民にこれ以上の負担はかけられない。アラブの大義を旗印にイスラエルと数回に
わたって戦争をしたが、死者、負傷者の大半はエジプト人であった。前任者ナセルのアラブの大義に対して、
サダトはエジプト第一主義を決定した。エジプト経済の悪化という現実問題からもこれ以上の衝突は避けなければな
らなかった。
このサダトのイスラエル訪問の翌年、1978年米国大統領の仲介で2週間の合宿形式の首脳会談がおこなわれました。
これもまた世界をあっといわせました。3国のリーダーが泊まり込みで、しかも2週間にわたり会談するというのは
チョット考えられない出来事でした。
1978年9月5日から18日まで、米国メリーランド州の大統領山荘キャンプ、デービッドで、カ-タ-米国大統領、
サダトエジプト大統領、ベギンイスラエル首相の三者会談でした。会談13日目の9月17日合意が成立、三首脳に
よって調印されました。合意文書は基本的に2つの部分から成っていました。
1、エジプト、イスラエル間の平和条約を求める。これによって両国関係の正常化を達成する。
2、パレスチナ人の自治に関して、イスラエルはパレスチナ人の自治について交渉することを約束する。
1の合意に基づき、翌年1979年イスラエル、エジプト間に平和条約が締結。イスラエルはシナイ半島返還を約束し、1982年4月完全撤退を完了した。
2の合意に関して、約束どおりイスラエルは交渉を始めたが、自治を与える事は約束していなかった。
結果として、イスラエル、エジプト両国間の単独和平は達成されましたが、パレスチナ人の自治獲得にはまだまだ
遠い道のりでした。
1981年10月6日サダト大統領は暗殺されます。イスラエルとの和平に反対するイスラム原理主義者の犯行でした。
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