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誰にでもわかるパレスチナ問題(その11)

NPO法人大本イスラエル・パレスチナ平和研究所
主任研究員 矢野裕巳

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「インティファーダー(民衆蜂起)」



 エジプトとの和平成立によりイスラエルは、シリア、エジプトと二正面から戦う必要がなくなりました。
エジプト抜きのアラブ陣営とイスラエルの間にはイスラエルの圧倒的な軍事力の優越さゆえ、もはやアラブ陣営は 力でイスラエルに対抗することは出来なくなりました。この極端な軍事的不均衡の中、イスラエルがレバノン戦争 を引き起こします。この戦争は、あくまでもイスラエル側からの見地ですが、他の4度の戦争とは違っていました。
4度の戦争はイスラエルの生存をかけた戦争でしたが、レバノン戦争はベギン首相のいう『選択による戦争』で、 建国以来はじめて兵役拒否がでた戦争といわれています。
レバノン戦争はイスラエルのレバノンに対する戦争ではなく、ヨルダンからレバノンへ亡命した PLO(パレスチナ 解放機構)に対する攻撃でした。

当時 PLO はレバノンの首都ベイルートが本拠地でしたが、このPLO の存在がイスラエル北部の安全を脅かすという ことで、1982年6月イスラエル軍はレバノン国境を超えるのです。イスラエルの真の目的は今も占領が続くガサ、 ヨルダン川西岸のパレスチナ人の民族主義のよりどころである PLOを破壊し、占領地の支配を確実にしょうとする ものでした。1ヶ月以上もベイルートを包囲し、砲撃を続け、多数の民間人の犠牲を出しました。

この力による攻撃に対抗して、パレスチナ住民のインティファーダー(民衆蜂起)が激しさを増してきます。
レバノン戦争で敗れたPLOは本部をチエニジアに移さなければならなくなりました。占領地に住む人たちはアラブ 諸国や PLOゲリラが自分達を解放してくれるとは思わなくなり、ついに占領下のパレスチナ人たちが立ち上がること になります。1987年12月8日ガザにおいて、パレスチナ人の車にイスラエル軍のトレーラーが衝突し、パレスチナ人 4人が死亡、7人が重症。この事がきっかけとなりイスラエル軍とパレスチナ人との衝突が激化。2日後、ヨルダン川 西岸の町ナブルスでの大きな衝突で、一人のパレスチナ少女が射殺される。そして、衝突は全紛争地に広がり子供達も イスラエル軍に石を投げて対抗し始め、パレスチナ人の中におびただしい数の犠牲者を出します。

後にノーベル平和賞を受賞するイツハック、ラビン氏は当時の国防大臣で、そのインティファーダー対策として、 全イスラエル兵に『石を投げる者の手足を折れ』と厳命しました。イスラエルの強硬姿勢にもかかわらず、完全武装 したイスラエル兵士に立ち向かうパレスチナの子供達、女性の数は増える一方でした。
イスラエルの占領に反対するパレスチナ人の抵抗運動はますます激しくなり泥沼に入りこんでいきました。

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