誰にでもわかるパレスチナ問題(その13)
「オスロ合意からラビン首相暗殺まで」
NPO法人大本イスラエル・パレスチナ平和研究所
主任研究員 矢野裕巳
(その1)
(その2)
(その3)
(その4)
(その5)
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(その64)
(その65)
湾岸戦争が終わるや米国は中東におけるパレスチナ問題解決のため、国際的中東和平会議開催に向けて政治工作を
始めました。イスラエルとパレスチナの問題を放置すれば、第2のサダムフセインが現れ、自国の利益のため、
この紛争を利用して対外的に侵略する集団が現れる事を懸念したのでした。現実に湾岸戦争後、今日に至るまで
事あるごとに米国の中東政策『ダブルスタンダーyド』はアラブの強い批判の対象になっています。米国の『ダブル
スタンダード』とは、米国はイスラエルの国連決議無視の態度には目をつぶり、アラブに対しては国連決議の遵守を
強く迫り、武力行使も辞さないという矛盾点です。
湾岸戦争終結から8ヶ月後、米国の強い働きかけで1991年10月30日から3日間、中東和平会談がスペインの首都
マドリードで開かれました。米国とソ連が共同開催国となり、イスラエルとパレスチナ代表による話し合いが始まり
ました。
しかし、イスラエルが PLO幹部の出席を拒否したためパレスチナ代表はPLOのアラファトではありませんでした。
実質問題の解決という意味では、実りのない会議でしたが、かつて一度も交渉の同じテーブルについたことがなかった
アラブとイスラエルの代表が一つの会議場で初めて中東和平を話し合ったことは画期的な出来事でした。
その後イスラエルでは労働党か政権をとります。ラビン首相は、パレスチナ人の信頼を集めるPLOを拒否していては、
問題解決は出来ないと判断し、ノルウェーのホルスト外相の粘り強い仲介を受けて非公式にPLOと交渉を続けます。
1993年9月13日ラビンとアラファトはワシントンDC を訪れ『パレスチナ暫定自治協定』に署名し固い握手をかわし
ます。オスロでの事前交渉から『オスロ協定』『オスロ合意』と呼ばれています。イスラエルとパレスチナの代表が
正式文書に署名することはそれまでの常識では考えられない事でした。
オスロ合意から半年後1994年5月4日ラビンとアラファトはカイロでパレスチナ自治協定に調印、パレスチナ暫定自治は
その実現にむけて進み出しました。
1995年9月28日ワシントン DCで『パレスチナ自治拡大協定』いわゆる『オスロ、ツー』が調印され、特にイスラエル
政府はパレスチナ人との共存を望む姿勢を鮮明にしました。急速に進むパレスチナ和平に反対する勢力は、イスラエル側
にもパレスチナ側にもいて、イスラエル国内の右派勢力、パレスチナの過激派がそうでした。
1995年11月4日イスラエル首相イツハック、ラビンはテルアビブで開かれれていた平和集会で狂信的ユダヤ人によって
暗殺されます。
これ以後平和プロセスは急速に衰えていくことになるのでした。
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