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「エルサレムで『世界平和祈願祭』」
エルサレムと綾部市が友好都市宣言が行われた2000年。7月22日から29日ま
で総本部から『エルサレム平和使節団』が結成され、103名が、イスラエル、テ
ルアビブ市で開催された『第85世界エスペラント大会』に参加しました。またハイ
ファ市のティコティン日本美術館では『日本の夕べ』を開催し、多くの市民に日本文
化を紹介しました。
(写真)モルモン大学礼拝堂での「平和祈願祭祭典」
また、エルサレム市では大本祭式による『世界平和祈願祭』を執
行。エルサレム旧市街が一望できるブリガム・ヤング大学(モルモン大学)講堂での祭典となりました。
大本祭員に続いて、ユダヤ教指導者のデービド、ローゼン師、イスラム教指導者アブ
ドル、ブカリ師、キリスト教指導者ウエイン、マイニア師が登壇、それぞれ玉串をさ
さげました。
三教の聖地であるエルサレムで、三教の指導者と大本からの参加者が共
に祈りを捧げた事は大きな意味があったと思われます。
「指導者の決断」
『エルサレム平和使節団』がイスラエル滞在中、パレスチナ和平も大きな転換期を迎
えていました。大統領任期満了を半年後に控え、クリントン大統領はイスラエル首相
エフード、バラクとアラファトパレスチナ自治政府議長をメリーランド州のキャンプ、
デービッドに集め歴史的合意の達成をめざしていました。交渉は寝る間も惜しんで連
日、深夜まで続けられました。
(写真)エルサレム旧市街
旧市街と東エルサレムを含む全エルサレムはイスラエルの永遠の首都であるというの
が、イスラエル政府の従来の主張でした。(1980年のエルサレム基本法)これに
対して、パラク首相はクリントン提案のエルサレム分割案を受け入れました。イスラ
エルの首相として初めての受け入れでした。また、バラク首相は占領地の96%から
の撤退も提案しており、右派勢力の反対を考えれば、極めて勇気ある決断でした。し
かし、さらなる妥協を要求するパレスチナ側にとっては不十分な条件で、交渉は合意
は至りませんでした。ただ、大きく譲歩したバラク首相に対して、交渉妥結の落とし
所を見出せなかったアラファト議長の責任は大きいと思います。
クリントン大統領のパレスチナ和平合意仲介に関しては、その姿勢が批判の対象とな
る事も多く、任期中に合意をとりつけノーベル平和賞をねらったと考える人もいます。
ただ、大きな事柄をなそうとする時は、必ず反対意見があるもので、パレスチナ問題
のような複雑な和平交渉に取り組んだクリントンの情熱は、やがて歴史が証明してく
れるものと思います。
和平交渉失敗からイスラエルはバラク首相に代わり、対パレスチナ強行派のシャロン
首相が新首相に。そして、その時になって初めてアラファトはクリントンの和平案を
受け入れることを表明したのです。もちろん、シャロン首相が受け入れる事はなく、
遅すぎた決断でした。クリントン案を受け入れていたら、バラク、アラファトは共に
同胞の原理主義者から大きな生命の危険にさらされ、暗殺されたかもしれません。そ
の覚悟と勇気において、バラク首相とアラファト議長には少しの、温度差があったか
もしれません。『パレスチナ人は機会を逃す機会を逃した事がない』とは、ちょっと
言い過ぎかも知れません。ただ、2004年11月11日、この世を去ったアラファ
ト議長にとって、自分の目でパレスチナ国家樹立を確かめる最後の、そして最高の機
会であった事は確かでしょう。
パレスチナ問題を語る上で、パレスチナ人が被害者、ユダヤ人が加害者という図式で
その紛争を解説する人達がいます。しかし、現在のパレスチナが弱い立場に置かれて
いるのは、過去の戦争の結果なのです。1947年の国連分割案を受け入れず、戦争
をしかけたのは、アラブ側であり、その結果によっては現在の立場は逆になっていた
かも知れません。
イスラエル建国時、時の国力を考えて決断を下し、将来の国民の為に譲歩するところ
は譲歩する勇気をもっていたベングリオン首相のような、強いリーダーシップと先見
性、決断力のあるパレスチナ人の政治的指導者が和平推進には何よりも不可欠だと思
われます。
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