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誰にでもわかるパレスチナ問題(その18)

NPO法人大本イスラエル・パレスチナ平和研究所
主任研究員 矢野裕巳

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「神は死んだ。パレスチナ問題の複雑さに悩んで!」

 総本部からの『エルサレム平和使節団』が日本へ帰国してから2ヶ月後。 2000年9月、アリアクサ、インティファーダ(民衆蜂起)が勃発します。 バラク首相の和平交渉の行き詰まりにつけ込んだリクード党首アリエル・シャロン氏の行動が、 パレスチナに対する挑発行為の発端となります。 9月28日、エルサレム旧市街のハラム・アシャリフ (高貴な聖域、ユダヤ教では神殿の丘)に約1000名の護衛を引き連れ、 シャロン氏はイスラムの聖地へ足を踏み入れました。 ここには、アルアクサモスクと岩のドームがあります。 

 翌29日2万人以上のパレスチナ人が抗議行動を開始、 嘆きの壁にお参りに来ていたユダヤ教徒に投石を始めました。 死傷者数が増えていきましたが、ほとんどが、パレスチナ人でした。 ガザで12才のパレスチナ人、ムハメッドが父親の前でイスラエル兵に射殺される様子、 またイスラエル兵がパレスチナ群集にリンチで 殺害される様子等がそれぞれ世界のメディアで繰り返し報道されました。

 クリントン大統領は衝突が止まらないのを受けて、 両首脳と電話会談するなど、自ら介入に乗り出します。

 7月のキャンプデービッド決裂後も翌年1月の任期終了まで クリントン大統領は和平合意に努力します。クリントンは、 中東に関わりの深い国務省高官デニス・ロス氏を中東和平担当の大統領直属特使に任命し、 ひとたび問題が起ると『火消し役』として直 ちに派遣するのでした。

 2001年1月にクリントンを受け継いだブッシュ大統領は一転、 パレスチナ問題に距離を置きます。 パレスチナ問題解決を外交上の最優先課題と位置付けていたクリントンに対して、 ブッシュ政権は『パレスチナ問題は米国の国益を直接損なわない』と判断しました。 それよりもクリントン政権が手をつけなかったイラク問題に焦点を合わせてきたのです。

 1991年の湾岸戦争後、 パレスチナ和平の突破口となるマドリード会議を実現したベーカー元国務長官でさえ、 その回顧録のなかで、『国務長官に就任して以来実は私はパレスチナ問題には関与したくなかった。 アラブ、イスラエル紛争は、解決すべき課題というよりも、 避けるべき落とし穴と見なしていたのが、正直な気持ちである』と告白しています。

 哲学者ニーチェの『神は死んだ。パレスチナ問題の複雑さに悩んで死んだのだ』と いうジョークを聞いた事があります。もちろん、ニーチエはそんな事は言っていないでしょうが、 この問題がいかに複雑かを表していると思います。

 ブッシュ政権のパレスチナ問題への及び腰は 2001年9月の同時テロによって修正を余儀なくされる事になるのです。 ※このサイトに掲載されている文章、写真などの無断転載・ 無断複製を禁じます。

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