誰にでもわかるパレスチナ問題(その4)
「2枚舌? 3枚舌?」 エルサレム旧市街 筆者撮影
NPO法人大本イスラエル・パレスチナ平和研究所
主任研究員 矢野裕巳
(その1)
(その2)
(その3)
(その4)
(その5)
(その6)
(その7)
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(その9)
(その10)
(その11)
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(その63)
(その64)
(その65)
第一世界大戦が始まるまで、パレスチナはオスマントルコの支配を受けていました。イスラム教は本来他の宗教には
非常に寛容で、オスマントルコの治世下にあっても、アラブ人もユダヤ人も仲良く共存していたといわれています。
第一次世界大戦でオスマントルコと戦った英国は、戦争を優位に進めるために2つの、いや3つの矛盾する条約、
約束を大戦中に結んだのでした。このことが、今も続く紛争の種となったのです。
英国は『フセイン、マクマホン書簡』と呼ばれる往復書簡を通じてアラブに対し、パレスチナを含む東アラブ地域に
独立アラブ王国を樹立することを約束しました。同時に英国はユダヤ人に対してはパレスチナの地にユダヤ人の
ナショナルホーム(民族的郷土)を設立することにも支持を表明したのでした。これは、『バルフォア宣言』とよば
れています。
この2つの合い矛盾する約束に加えて、英国はフランスとは、『サイコスピコ協定』を締結。フランスとの間で、
大戦後の中東をいかに分割するかについて合意したのでした。当然英国はフランスとの約束を最重視し、英仏は自分達
だけでオスマントルコ後の中東の領土分割を取り決めてしまいました。
これが、いわゆる中東での英国による2枚舌、3枚舌外交と呼ばれものでした。
第一次世界大戦のあと、1922年、パレスチナは英国の委任統治領となり、アラブの独立国家も、ユダヤ人のナショナル
ホームも現実のものとはなりませんでした。ただ当然これで、アラブ人もユダヤ人もおとなしく引き下がる事はできな
かったのでした。
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