誰にでもわかるパレスチナ問題(その47)
”ヨルダンハシミテ王国 1”
NPO法人大本イスラエル・パレスチナ平和研究所
主任研究員 矢野裕巳
(その1)
(その2)
(その3)
(その4) (その5)
(その6)
(その7)
(その8)
(その9)
(その10)
(その11)
(その12)
(その13)
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(その15)
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(その20)
(その21)
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(その57)
(その58)
(その59)
(その60)
(その61)
(その62)
(その63)
(その64)
(その65)
”直線的な国境”
パレスチナ問題を考える時、現在のイスラエル、
パレスチナ自治区周辺の国々についてもその歴史的成り立ちを考える必要があると思われます。
アフリカ諸国の国境と同じようにアラブ世界の国境も緯度、
経度に沿った直線的なものが多く見られるのは同じ理由からです。
英仏中心のヨーロッパ列強が現地固有の事情、
宗教的聖地等を配慮せずに自分たちの都合で国境を決めたのです。
西にイスラエル、東にイラク、
また南はサウジアラビア、北はシリアに囲まれたヨルダン、
正式名称ヨルダンハシミテ王国について何回かに分けて勉強しましょう。
英国の約束は?
20世紀初頭までアラブ民族はオスマントルコに支配されていました。
独立の機運はあり、いくつかの反乱はありましたが、実現しませんでした。
地政学上の重要地点としてこの地に関心をもった英国は第一次世界大戦(1914年~1918年)のさなか、
1916年、独立を願うアラブと重要な約束を交わします。
現在するアラブの国々は、当時存在せず、
アラビア半島のメッカ(イスラム第1の聖地で現在のサウジアラビア)で
守護職についていたシャリーフ・フセインがアラブを代表しました。
シャリーフとは高貴なと言う意味で預言者ムハンマッドの家系です。
その約束とは、アラブが英国のオスマン帝国への攻撃を助けるかわりに、
その勝利の後には現在のサウジアラビア、シリア、イラク、ヨルダン、パレスチナ自治区、
イスラエルの地域に、アラブの大国家を設立するというものでした。
一方、英国はこの大戦中にユダヤ人とも同様の約束を交わしており、
その2枚舌外交がパレスチナ問題のスタートである事は本誌でも4回目で書いています。
フセインの3男、ファイサルはアラブ反乱軍として1918年ダマスカス(現シリアの首都)へ入り、
父フセインが望むアラブ王国建設への重要地点を押さえました。
ところが戦争が終わった後の英国の姿勢はまったく違っていて、
サイコス・ピコ条約で約束していたフランスと中東領土を分割したのです。
アラブ側は1920年、ファイサルを国王としてアラブ独立を宣言するも、
フランスの武力に屈してファイサルは国外追放となり英国での亡命生活を強いられるのでした。
”アブドラー・チャーチル会談”
これら英仏の態度に激怒した、
フセインの2男アブドラーはフランスに占領されたダマスカスへアラブの大軍を進めようとします。
この危機に際して登場するのが、有名な後の英国首相ウィンストン・チャーチルです。
当時植民地大臣であった彼はアブドラーとエルサレムで会談します。
このアブドラー・チャーチル会談により、現在のヨルダンという国が誕生します。
この取り決めについては現在も様々な意見がありますが、
私はチャーチルの外交手腕、高度な交渉術そしてアブドラーの現実主義が生み出した結果であると思います。
トランスヨルダン
アラブとの約束反故を何とか払拭しようと、チャーチルは動きます。
アンマン(現在のヨルダンの首都)を含むヨルダン川東岸地域を「トランスヨルダン」として
(トランスとは英語で向こう側、つまり英国から見てヨルダン川の東側と言う意味)アブドラーの支配下に委ねます。
当初英国委任統治としてスタートしますが、
1946年、独立国としてアブドラーは初代国王になりました。
父フセインが望んだ領土にはとても及ばないものの、
当時の英国と交渉しアラブ人の国を立ち上げたアブドラーの力量は評価出来ると私は考えています。
英国がユダヤ人と約束したバルフォア宣言には
ヨルダン川東岸の土地は含まないということを
チャーチルに約束させた事は現代のパレスチナ問題においても重要な点で あったと思います。
イラク
一方英国に逃れた3男のファイサルは、
ダマスカスでのフランスとの戦いでの英国の態度を決して忘れることはなかったものの、
残りの人生を亡命生活で終えるより、新しいアラブの国の発展に寄与すれば、
という説得を受け入れたのでした。
またしてもチャーチルの説得で、
反英感情の高まりに苦慮していた当時のイラク地方を英国から独立させ、
ファイサルに新しい国家を築く決心をさせました。
ファイサルは根気強く国家としてのまとまりを進めていきました。
はたして、 事情の違いはあるでしょうが、兄のアブドラーのトランスヨルダンの独立より早く、
1932年、イラクは独立国として国際連盟に加わりました。
兄弟の国、イラク、ヨルダン
ファイサルの死後、わずか2代で王政が終わり、
軍事による共和制となったイラクについては、別の機会に詳しく述べたいと思います。
サダム・フセインや現在の混乱についても考えたいと思います。
がここでは、第一次世界大戦において、
イギリスと領土の約束(フセイン・マクマホン書簡)をしたシャリーフ・フセインの2男、
3男がそれぞれ、現在のイラク、ヨルダンを作った事を覚えておいてください。
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