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誰にでもわかるパレスチナ問題(その48) 

NPO法人大本イスラエル・パレスチナ平和研究所
主任研究員 矢野裕巳


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”ヨルダンハシミテ王国 2”



”独立から現在まで ”  

 英国と領土の約束(フセインーマクマホン書簡)をしたシャリーフ・kフセインの次男、 アブドゥッラーは1946年、イギリスの保護下からトランスヨルダンを独立させ 自身がアブドゥッラー1世として初代国王に就任しました。 1949年に国名をヨルダン・ハシミテ王国に改めました。

 1951年7月20日、アブドゥッラー1世は エルサレムのアル・アクサモスク入り口でアラブ人民族主義者によって暗殺されます。 その暗殺現場を目撃したアブドゥッラー1世の孫が、 後に3代目の王となるフセイン1世でした。 アブドゥッラー1世暗殺の後、長男のタラール1世が2代国王として即位しますが、 病弱な為、孫のフセイン1世が摂政を経て1953年5月2日、 17歳で3代目国王に就任。 1999年に亡くなるまで約半世紀の間、難問の重なる中東で王として国のかじ取りをしました。 1999年から現在までアブドゥッラー2世が4代目の国王として国を統治しています。



photo  ”君主は世襲制”

アブドゥッラー1世(1946年~1951年)
タラール1世   (1951年~1953年)
フセイン1世   (1953年~1999年)
アブドゥッラー2世 (1999年~現在 )


写真はフセイン1世(左)とアブドュッラー2世現国王(右)






 ”さらなる難民”

 トランス・ヨルダンから国名をヨルダン・ハシミテ王国に変更した翌年の1950年4月、 東エルサレムを含むヨルダン川西岸地域をヨルダン領と宣言した。 しかし1967年の第3次中東戦争で、この地域をイスラエルに占領され、 新たに20万人ともいわれるパレスチナ難民を抱える事になります。 1948年のイスラエル独立宣言に始まる、第1次中 東戦争で40万人ものパレスチナ難民をすでに国内に抱えていたのでした。



ヨルダンはなぜ参戦したのか?

 ヨルダン川西岸と東エルサレムを失う事になる第3次中東戦争になぜヨルダンが参戦したのか?
 ヨルダンに対してイスラエルは当初開戦の意思をもっていなかったように思われます。 エジプト、シリア両国に攻撃を準備していた開戦前のイスラエルを考えれば、 ヨルダンが攻撃してこなければイスラエルとの戦闘はなかったと思われるのですが?
もちろん、これもイスラエルの情報操作で、 実際はそうではなかったと主張する人もいますが、 これは後世の歴史家の証明に委ねておきましょう。 ただ、この戦争でのアラブ大敗によりパレスチナ人は 自分たちの力でパレスチナを解放しようという動きが強まりました。
http://www.jinruiaizenkai.jp/Japana/ja-kolumno/j-bill/darepare/dp-8.html
その事によりヨルダン国内は正規のヨルダン政府とパレスチナ組織の内戦状態に陥ってくるのです。




ブラックセプテンバー  

 1969年ヤセル・アラファトがパレスチナ解放機構(PLO) の議長に就任。 ヨルダンに拠点を置き、あたかもヨルダン国内のもう一つの国家として行動をするようになるのです。 PLOはヨルダンからイスラエルに対する越境作戦により、 イスラエルの反撃を誘いヨルダンを戦場に、そして他のアラブ諸国も巻き込み、 イスラエル対アラブ全体の戦いに持っていこうとしたのです。 ヨルダンはまさにイスラエル軍襲撃の的でした。 イスラエルとの全面戦争突入を回避するため、フセイン国王は決断します。 1970年9月、ヨルダンからパレスチナ組織を追い出す軍事攻撃に出ました。 およそ10日間の壊滅作戦でパレスチナ 組織はヨルダンから追い出され、レバノンに移ります。 レバノンは後にヨルダンと同じ問題に苦しむ事になるのです。
 1970年9月にヨルダンで起こった、 この出来事はブラックセプテンバー(黒い9月)として歴史に刻まれています。 多くのパレスチナ難民と、国民の半数以上がパレスチナ人であるヨルダンにとって内乱の危機に直面した時でした。 またヨルダン政府によるパレスチナ人攻撃をアラブ諸国は強く非難し、建国以来最大の困難でもありました。 次回はもうひとつのヨルダンの危機、湾岸戦争への対応について詳しく考えてみたいと思います。






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