誰にでもわかるパレスチナ問題(その5)
「国連分割案(1947年)」
NPO法人大本イスラエル・パレスチナ平和研究所
主任研究員 矢野裕巳
(その1)
(その2)
(その3)
(その4)
(その5)
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(その64)
(その65)
アラブ人との約束、ユダヤ人との約束、はたまた、フランスとの約束を通して、英国は第1次世界大戦前後、自ら招いた
三枚舌外交のつけをその後払わされる事となります。
1920年、サンレモ会議でパレスチナは英国の委任統治領と認められ、1922年英国の委任統治が正式に始まりました。
アラブ人、ユダヤ人は共に、それぞれの約束を盾に、独立国家建設を主張します。その後、皆さんよくご存知の、第二次
世界大戦時のホロコースト(ナチスによるユダヤ人大虐殺)はユダヤコミュニテイーに一大打撃を与えます。ユダヤに
同情的な欧米の世論を背景にユダヤ問題解決はパレスチナにユダヤ国家を作るしかないという一大キャンペーンが展開
されます。
一方アラブ人の立場に立てば、ユダヤ人問題、ホロコーストの問題はあくまでも、ヨーロッパの問題でパレスチナの
自分達の将来の問題とは関係なかったのでした。なによりも、英国との約束に従いアラブ人の國をパレスチナに建設する
ことを望んだのでした。
現在、パレスチナのテロに苦しむユダヤ人ですが、当時英国政府機関に対して激しいテロ攻撃を繰り返すユダヤ人も
いました。パレスチナへのユダヤ人移民の数を制限しょうとした英国政府の対応に反対していたのでした。アラブ人と
ユダヤ人は各地で衝突をくりかえし、その対立がますます激しくなっていったのです。
ついに、1947年2月英国はパレスチナ問題解決を国連に委ねると宣言。事実上のパレスチナ放棄でした。英国から
問題を引き継いだ国連は同年11月国連総会においてパレスチナ分割案を可決します。パレスチナをアラブ、ユダヤの
2つの國に分割、エルサレムを国際管理下に置くという内容です。シオニスト(パレスチナにユダヤ国家を建設しよう
という考えの人)にとって、この分割案は大勝利でした。国際機間がパレスチナのユダヤ国家建設を決議したのですから。
一方アラブ側はこの決議に強く反発します。結果として、本格的な武力衝突に突入するのでした。
現在のパレスチナ問題を考える上で、イスラエルを支持する人のほとんどは次のように主張します。『もし、この時点、
つまり1947年の時点でアラブ側がこの国連分割案を受け入れていれば2つの民族はパレスチナで共存できていたし、
当然パレスチナ国家も建設されていたであろうし、現在の紛争、難民問題もおこっていなかったであろう』
はたしてこの時点でアラブ側がこの分割案に同意出来たかどうかは解りませんが、事実は、アラブはこの分割案に同意
せず、これ以後、アラブ、イスラエルは四度の大きな戦争を含め、多くの衝突を経験し現代もその問題を解決出来ずに
今日に至っています。
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