誰にでもわかるパレスチナ問題(その63)
”預言者を通してユダヤ教、キリスト教、イスラム教を考える”
”メシア(救世主)であるイエス ”
キリスト教でも旧約聖書に現れる預言者を認める点では、ユダヤ教と同じです。多くの預言者がモーゼ以降登場した後にイエスが出現します。キリスト教ではイエスを預言者以上のメシア(救世主)として、神が遣わされたとされています。イエスをメシアと信じる人たちのことをキリスト教徒と呼んでいます。ユダヤ教徒とは違って、モーゼは多くの預言者の1人として考えています。 イエスを預言者以上のメシアであると考えるキリスト教の特徴は、三位一体論にあります。三位一体とは、父、子、聖霊が一体、つまり唯一神であるとする教理です。父なる神、子なるイエス、そして精霊は3つに分かれているようでも、本質的には同じものであるとされます。つまり同一の本質を持ちつつも、互いに混同し得ない区別された3つの、父なる神、子なる神(キリスト)、聖霊なる神があると考えることです。 イスラム教では、モーゼを含むユダヤ教の預言者も、イエスも預言者の1人として受け入れています。コーランによれば、ユダヤ教徒もキリスト教徒もイスラム教徒と本質的に同じ信仰をもつ「経典の民」として語られています。またコーラン(イスラム教の成典)にはイーサー(イエス)をナビー(預言者)とする記述がたびたび出ています。ただし、あくまでも数ある預言者の1人として考えられています。
NPO法人大本イスラエル・パレスチナ平和研究所
主任研究員 矢野裕巳
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”預言者”
預言者(よげんしゃ)とは、神と直接接触・交流・対話し、直に聞いたとされる神の言葉を人々に伝え広める者のこと。
(フリー百科事典ウィキペディアより)
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の最大共通点は、唯一神の存在とその神から使わされた、預言者の存在です。ただ、同じアブラハムの宗教(聖書の預言者アブラハムの宗教的伝統を受け継ぐと称するユダヤ教、キリスト教、イスラム教)であっても、どの預言者を最重視するかのよって3つの宗教を比較することができると思います。
ちなみに、未来や人の運勢を語る者は「予言者」であり、神の言葉を預かるのが「預言者」です。
”トーラ=モーゼ5書(聖書のなかの聖書)”
ユダヤ教では男の子が13歳になるとバル・ミツバと呼ばれる成人式を行います。女の子は12歳で、バト・ミツバと呼ばれる式を行いますが、こちらの方は歴史が浅く、今でも、正統派ユダヤ教徒には受け入れられていないようです。
私は1999年の4月、米国ミネアポリスのシナゴーグで男の子の成人式バル・ミツバに参加した経験があります。成人式の準備として、少年はトーラ(律法)を学び、本番ではその一節を朗読しなければなりません。トーラを立派に朗読できれば、正式にユダヤ教徒として扱われます。
旧約聖書の最初の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記をトーラと呼びます。神がモーゼに伝えた言葉として、またモーゼ自身が著したとされるため、モーゼ5書と呼ばれています。
ユダヤ人にとってトーラは神から人に示された神聖法典で、モーゼに伝えられた言葉こそが神の永遠の掟であり、まさに聖書の中の聖書なのです。旧約聖書の中には多くの預言者の名が登場しますが、ユダヤ教徒にとって最古にして、最高の預言者はモーゼ以外は考えれないと思います。
”イエスは人であると同時に神である ”
キリスト教も多くの教派に分かれていますが、大多数はこの三位一体論を教義としています。これはキリスト教が生まれた1世紀にはなかった考えでした。4世紀になってキリスト教学の確立とともに論争がおこり、大部分の教派がこれを受け入れました。
まったく個人的な疑問ですが、もしキリスト教が多神教的、あるいは汎神論的(一切万有は神であり、神と世界は同一であるという宗教観)な考えをまったく排除する一神教とするならば、イエスの地上での祈りの対象は自分だったのでしょうか?
”最後の預言者
イスラム教では、イーサー(イエス)は十字架にかかっておらず、別人が十字架に磔にされたと考えられています。イーサーは一預言者として神から与えられた自分の使命を全うしたのです。しかし、イーサーをメシア(マスィーフ)とは認めていません。
イスラム教ではムハンマドはモーゼ、イエスまたその他の預言者に続く、最後にして最高の預言者です。神はムハンマド以前の預言者には神の教えの1部しか伝えてなく、それまでの預言者の教えが不完全に、あるいは誤った形で伝達されていると考えています。
そこで、最後に出てきたムハンマッドこそが、神の教えを完全な形で伝える最も優れた預言者なのです。
”預言者の宿命”
イエスはユダヤ教徒として生まれ、ユダヤ教徒を改革しようとしましたが、キリスト教といった新しい宗教を作ろうなどとは考えていなかったはずです。ましてや、三位一体論といった教義はイエス自身の思考にはなかったはずです。
ムハンマド自身は「旧約の預言者達よりも私の方が優れていると言ってはならない」との言葉を残しているようです。現在のように「預言者ムハンマドは完全であり、最大の預言者である」との考えはイスラム法学者の解釈であり、「最大の予言者」との概念をムハンマド自身が否定していたことも理解しておいた方がいいかも知れません。
”番外 ”
イスラムはイスラム教とは言わないと強く主張する人がいます。回教やマホメット教と書かれているものもあります。またモハメッドではなく、ムハンマッド、コーランをクルアーン、モーゼをモーセだと述べる人がいますが、これらは、要するに翻訳の問題です。できるだけ言語に近い形で示そうとするのかもしれませんが、あまり本質的な議論ではないので、本誌では一貫して同じ使い方に統一していきたいと思います。
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