誰にでもわかるパレスチナ問題(その7)
「アラブ民族主義の台頭、そして英仏植民地主義の終焉へ」
NPO法人大本イスラエル・パレスチナ平和研究所
主任研究員 矢野裕巳
(その1)
(その2)
(その3)
(その4)
(その5)
(その6)
(その7)
(その8)
(その9)
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(その11)
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(その63)
(その64)
(その65)
新生イスラエルに対するアラブ連合軍の敗退はアラブの若者に大衝撃をあたえました。
アラブの中心国家エジプトでは、王政の腐敗を指摘するナセルらエジプト若手将校の『自由将校団』がクーデターを起こし、
1952年エジプト王制を崩壊させました。
ナセルは2つの大きな政策を掲げました。スエズ運河国有化とアスワンハイダムの建設でした。
はたして、1956年7月ナセルはスエズ運河国有化を宣言するのです。運河の通行料をダム建設にまわそうと考えたのでした。
この事が引き金となり、第2次中東戦争(スエズ動乱)が勃発しました。
当時運河を実質支配していた英国はフランス、イスラエルを誘い出し、軍事介入によってナセル政権打倒を企てます。
フランスは当時アルジェリア独立運動に苦慮しており、アラブナショナリズムの中核であるナセルを倒すことにより独立勢力
を衰退させようと考えていたようです。
イスラエルはエジプトがソビエトからの武器援助で力をつける前に叩きたいと思っていました。英国のシナリオによれば、
まず、イスラエルがシナイ半島に進撃、スエズ運河の手前まで進む、そこで英国はフランスとともに、あたかも仲介役である
かのように登場するのです。紛争から運河を守る名目で運河地帯を占領、この期をとらえてナセル政権を潰そうというのです。
1956年10月29日、英国のシナリオ通り、イスラエル軍は運河地帯をめざし進撃。まさに英国、フランスが運河地帯に介入
したところで、思わぬ『待った』がかかりました。米国、ソビエトが、共にこの侵略行為の停止と撤兵を強く求めたのでした。
エジプトを支持するソビエトの反発は当初から予想されたものの、米国からの激しい非難に対し英仏両国は即座に撤退せざるを
得なかったのでした。
では、どうして英国は米国の反応を完全に読み違えたのでしょうか?
まず、イスラエルを誘い出し、攻撃の開始期日を10月の末に選んだ。なぜでしょうか?11月初旬米国では大統領選挙を控えて
いて、この大統領選挙を考えればアイゼンハワー大統領もイスラエル参加の軍事行動にそう強く非難出来ないであろうとタカを
くくっていました。英国は当時のアイゼンハワー大統領の現職としての人気を読み違えたようであります。ユダヤ票をあてにし
なくても十分当選できたのです。
さらに、この年1956年ハンガリーで民衆の反ソ運動が高まっていて、ソ連は武力でこの暴動を
押さえていたのでした。米国はどうしてもこの時期世界の目をハンガリーに集め、そのことでソビエトを牽制しようとしていた
のでした。
ちょうどその矢先スエズで戦争が始まりました。世界の目が中東に注がれるに乗じてソ連は兵力を首都ブタベストに突入させ反乱
を鎮圧させました。アイゼンハワーの逆鱗は三国、とりわけ英国に向けらたのでした。
この戦争によりイスラエルは中東での軍事大国の地位を固めはじめ、エジプトは戦争には敗れましたが、スエズ運河という国家的
財産を英仏から守るという政治的勝利を勝ち取りました。対照的に英仏両国の国際的威信は大きく低下しました。とりわけ武力に
よる運河奪回作戦失敗はアラブ諸国への影響力を失わせる結果となったのでした。
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