TOP 


『素顔の大本』ビル・ロバーツ著  /日本語訳  矢野 裕巳 


はじめに
序文
プロローグ
プロローグ2
チャプター1-1
チャプター1-2
チャプター2-1
チャプター2-2
チャプター2-3
チャプター2-4
チャプター2-5
チャプター2-6


パート 1  偉大な根源の源


我々の視点から非凡なる人を締め出す事ほど愚かな事はない。単に我々が彼らのような行動をとれないというだけの理由において。
ウイリアム、ジェームス  宗教体験の多様性より

photo



1 章  旅はスリッパで始まる

肉体の巡礼は心の旅路の象徴的行動である。 

 トマス、マートン海外から亀岡大本本部を訪問する人は窒息しそうな空気と味気ない食事と共に満席の飛行機で到着することがよくあります。米国から、ヨーロッパからそして中東から彼らはやってきます。そのような地域に大本の友人の多くは住んでいます。ほとんどの場合彼らは大阪、 関西国際空港に到着します。その後、時差ボケの彼らはおよそ2時間余り、大阪、京都を経由しバスや列車で亀岡へ着きます。大本訪問がどれだけ楽しみであっても、安生館で受付を終える頃には、疲労と空腹で多少怒りっぽくなるものです。疲労困ぱいの巡礼者にとって最初の文化的障害は何でしょうか?  スリッパです。

photo  大本での最初の数時間、どこを見回しても目にするものはすべてスリッパです。安生館、万祥殿、お茶室、事務所、台所、トイレ、お風呂、スリッパだらけです。布のスリッパ、レザーレットのスリッパ、革のスリッパ、ワラのスリッパ、安価なビニールのスリッパ、木製のスリッパ(痛い)、 安っぽい赤、青、グリーン、ピンクのスリッパ。可愛いイヌやネコ、男の子や女の子のデザイン入りスリッパ。ダンボールのように特徴のないスリッパ。ほとんどのスリッパは西洋人の足には小さすぎるのですが。

 私は大本での最初の夜のことを決して忘れません。
 1999年4月2日、陽の沈むころ、我々は関西国際空港へ到着しました。 サンフランシスコから12時間のフライトのあと、列車の接続を間違ってしまったのです。
 結果として24名の、ほとんどが年配の、疲れきった人たちは予期せず外国語で列車の時刻表を解読しなければならない羽目になりました。 不慣れな貨幣でチケットを買い、大きなかばんを空港から列車の駅へ、列車から列車へと、苦労した2時間でした。 亀岡駅で大本の方が数名出迎えてくれた時は本当に嬉しかったです。駅からトラックで我々のスーツケースを天恩郷(大本亀岡本部)へ運んでくれました。 我々は寒い霧雨のなか、天恩郷まで歩きました。歩いて10分程度の距離ですが、とても疲れたのを覚えています。 途中暗がりに白い点々が見えました。誰かが木にたくさんの真っ白な瓶を結び付けたのだととっさに思いました。もっと近づいて見ると古い堀の上方に白いサギが止まっていたのでした。 大本での最初の楽しい思い出です。

photo
 安生館に入り、靴を脱いで気持ちの良いスリッパに履き替えました。長い、うんざりした1日の最後のスリッパになるはずでした。大本では我々が使用できるたくさんのスリッパを用意してくれました。柔らかいスリッパで部屋まで階段を登りました。そして床の畳に布団をひいて寝 る事になっていました。

 突然スリッパが複雑になってきました。部屋に入る前、ドアのところでスリッパを脱いでおきます。畳の上は靴下だけで、スリッパも靴も履いてはいけません。トイレに行く時はスリッパで廊下に出て、トイレに入る前にそのスリッパを脱ぎ、トイレ用の不格好で窮屈なビニールのスリッパに履き替えます。そしてペシャ、ペシャと寒いトイレの中へ。それが終わるとビニールのスリッパを脱ぎ快適なスリッパへ。寝る前に一杯のお茶を! 快適なスリッパを共同台所のドアの前で脱いで、より質の落ちるスリッパ(トイレ用よりはまし)に履き替え台所へ。すべて終わるとお茶をもって部屋に引き返す。しまった!台所のスリッパで部屋に戻ってしまった。急いで台所へ戻る。戻る途中シャツにお茶をこぼす。

 ああー!今度は廊下の一番奥の洗い場へ!洗い場でスリッパを履き替え、また履き替えて部屋へ戻る。部屋へ入る前にはスリッパを脱いで、畳の上はスリッパはダメ。スリッパの頭の体操でへとへとになりました。

 日本人は世界で最もお客さんを大事にする国民として知られれていますが、いかに西洋人が日本のスリッパの使い方に苦労するか理解してないようです。靴を脱いでスリッパを履き、またそれを脱いでと、部屋を移動するたびに行われる行為は訪問者に多くの足元失態体験を与えて います。

photo  ある大本のパーティで一人のアメリカ人女性はトイレに中座しました。まもなく彼女はフラミンゴピンクのビニールのスリッパで戻ってきました。(彼女は酔っぱらっていたわけではありません)彼女はそのような非礼を犯した最初の人でも、最後の経験者でもありません。何度も大本を

 訪れている友人も他のいかなる日本の習慣よりスリッパに悩まされ、ストレスを感じると話してくれました。同様な意見を持つ人がたくさんいます。

 スリッパについてもう少し。スリッパは素晴らしい習慣として始まりました。そして、不安に苦しめられるパズルになりました。ルービックキューブのような複雑さをもって。スリッパは少々行き過ぎた清潔さ、手がつけられない強迫観念への不安でしょうか? あるいはある種の足フェチ!でしょうか?実際日本にはたくさんの足湯があります。疲れた足への温泉です。なぜ私自身今だにスリッパに強い関心を持っているのでしょうか? 

 何度も大本を訪問する機会がありながら、まだまだ理解出来ない事がいくつもあります。しかし、これだけは確信をもって断言します。日本人がスリッパの使用を止める時は、彼らがお辞儀を止める時でしょう。

 大本を初めて訪れた時、スリッパに始まる伝統文化、伝統芸術を通して、時に困惑しながらも、長い日本探検が続くとは思いませんでした。私の魂の中心にむかう魅力的な巡礼、私のユダヤ、キリスト的思考へ挑戦する巡礼でした。私は私の陶芸の先生と大本へやってきました。他の22名の生徒も日本芸術を学ぶために大本に来苑しました。私自身は3年間長い休暇をとっていなかったので、仕事から少し離れたいと考えていました。その時は、規模も決して大きくないこの教団がその後6年にわたり私の人生を大きく支配するとは夢にも思っていませんでした。最初の大本訪問以来6回大本に滞在しました。この本の執筆の滞在も含めてです。私は大本に入信したわけではありません。 大本が、この教団の正式な名称です。私は大本についての本の執筆を依頼されましたが、どのような内容を書くようにとの検閲はありませんでした。

 私の大本への関心は芸術からですが、私はジャーナリストとして多くの記事を書いています。大本のお話は神聖なお告げ、一風変わった予言、奇跡、信仰的お陰、迫害、 投獄、そして、破壊、島や山頂への巡礼、また 宗教的ユートピアを創造するためのまるで戦争物語のような旧約聖書的冒険談にあふれて展開します。 旧約聖書と違いこれは、過去113年の間に起こったお話です。大本の足跡はまだまだ新鮮です。 世界において親切で、愛情あふれる大本の考えを理解できるならスリッパの苦労は十分がまんできると決心しました。私が大本で学んだ事ははるかに価値ある事でした。 本当のところ、今だ私がどうしてこんなに大本に魅かれるのか私自身完全に理解できていません。スリッパ同様説明できないのです。加えて精神的な分野について説明する事は、 時として残念賞に値することです。


photo




旅はスリッパで始まる2

偉大な根源(おおもと)との出会い1


 大本は世界で最も興味深く、かつ目立たない宗教であると思います。

 「素顔の大本」はこの注目すべき小さな教団の21世紀前半の生の実像を写真と共に表しています。 私は本書を必要に応じて歴史、伝記、教義、比較神学、心理学、芸術に分類しています。しかし私は学者ではありませんし、本書は論文でもありません。 私は可能な限り本書を大本信徒と私との体験から著したいと考えています。

 パート1では歴史、 教義、祭典、そして過去と現代の大本指導者を紹介します。 パート2では信徒の素顔に焦点をあてています。パート3では大本の宗際活動やその他の社会問題への献身的活動を検証します。そして、パート4では大本における芸術の役割を考えていきます。

 私の6年に及ぶ大本との関わりの中で、大本を内側から観察するという貴重な体験を得る事ができました。祭典に参拝し、行事にも実際に参加しました。 そしておよそ60ヶ所あるといわれる大本の神の家のうち12以上の地方支部を訪問しました。北海道から長崎、鳥取から四国へ。私は数多くの大小の祭典を撮影しました。

 毎月の祭典(月次 祭)、四大祭典、大本式結婚式、葬儀、お茶席、展示会、奉納行事、また車のお祓いにも立ち会う事ができました。

 およそ100名の信徒や本部奉仕者の方々にインタビューし写真を撮りました。それぞれの個人で、事務所で、神の家で、またその他の神聖なる場所で、 通訳を通して主に2004年の11月から2005年10月まで行いました。(インタビューの日時は巻末に記載しています。)数枚の例外を除いてすべての写真は私が撮影しました。

 私は大本信徒の親切に感謝しています。私の取材に協力いただいた多くの信徒にとって、私は話をする初めてのアメリカ人であったと思います。

 米国の評判が海外で低下している中で、今回の仕事は名誉であると同時に大きな責任を伴うものでした。米国の価値観を共有する事を世界に示すことは重要なことです。 しかし米国内には全くそれとは別の価値観をもつ人間も存在する事を理解してもらわなければなりません。

 大本は戦前の日本帝国主義政府によって2度の弾圧を受けました。 大本信者は政治権力の悪用には極めて敏感です。弾圧によって拷問を受け、不具となり、死亡した父祖をもつ人たちが信徒のなかに存在します。


 大本は「偉大な根源」あるいは、「大きな源泉」と翻訳されます。 (大本は時にはoomotoはomoto とも著されます。また大本は大本教と書かれていることもあります。)

 大本はいわゆる新興宗教の1つで、教派神道に入ります。大本のルーツは神道であり、自然崇拝の形態です。

 大本の特徴の1つはすべての神々が同じ神であるという教義にあると思います。

 出口王仁三郎聖師(1871~1948)は「すべての宗教は同じ偉大なる根源から発生している」と述べています。 聖師とほぼ同年代を生きたカール・ユング(1875~1961)は同じような結論に達していますが、ユングは人間の精神探検家であり、宗教指導者ではありませんでした。

 大本では万教同根を説き、宗教的寛容の精神を大事にしています。 西洋で宗際運動がある種の流行になるずっと以前からこの事を実践しているのです。


 大本は、文盲の貧しい小作農夫人によって開教され、以来女性が教主となり、教典が守られています。

 開祖出口なお(1837~1918)が、1892年、最初の神懸かりとなったその年を大本の開教としています。

 向こう見ずで、多芸かつ多才な才能を持つ王仁三郎が1897年最初の宗教的修業を経験しました。1900年なおに加わり、 なおと共に2人の教祖の1人となりました。なおの娘であるすみこ(1883~1952)と結婚し出口家の婿養子となります。このような事は日本ではよくあります。 (私は西洋的慣習で、ファーストネームを使うようにします。出口姓の名前は非常に多いので、2度目に出た時は ファースト ネームで著すようにします。 大本信徒の宗教的タイトルは省略しています。ほとんどの信徒は神官となるからです。)

 大本には2つの本部があります。天恩郷は亀岡にあり教育と管理執行部門の中心地で、京都西方20kmです。

 梅松苑(梅と松の庭)は綾部にあり祭務の中心地で、亀岡の北西60kmに位置しています。

 なおと王仁三郎は教団運営において、全ての点で、いつも同じ意見だったわけではありません。しかし共通していたのは、なおも王仁三郎も神からの指示により人類が神と協力して 「世界の立替え」の準備を促すことを第一に考えていたことでした。神と直日の心が支配する世の中をつくる事です。

 私がこの本の執筆をしている時点では立替えはまだ完了していないと思われます。世界平和を目的に、異なる宗教への橋渡しとして、 また世界の立替えに寄与するであろうと信じる活動に信徒が献身する1つの宗教が存在するのです。

 大本信徒は世界法を模索し、民主的政府や1つの世界共通語(それぞれの母国語に加えて)を求めています。 それは、人類が美しい地球を守り、その資源をすべての人々で分かち合い、消費文明に毒されない宗教的寛容さに満ちた世界であり、すべての生命の尊厳が冒されない世界でもあります。

 王仁三郎はまた「芸術は宗教の母」であり「神は偉大な芸術家」であると宣言されています。王仁三郎は精神的理由、すなわち神を崇敬するために芸術を奨励されました。 大本信徒は茶道、能楽、書道、武道、そして陶芸等の伝統芸術を実践し、継承しています。多くの日本人が自分たちの文化や芸術の遺産を忘れかけようとしている時代においても。

 西洋では芸術作品や宗教は何千年にわたって伝えられてきています。しかし芸術が精神的向上として誰によらず利用できるという考えは一般に浸透している視点ではありません。 王仁三郎はまた芸術の価値を最終的完成品よりもむしろその過程に見い出しています。彼は「芸術とは専門家のための独占物ではなく自分自身を見つめ、神を見い出す為の普通の人たちにとって の道具である」

 私はお茶碗を通して大本と出会いました。茶道に使うお茶碗は素朴で丸い形をしており、両手でお茶を頂きます。王仁三郎は爆発的創造力で15ヶ月の間に3000個以上を造りました。 昇天前の数年間、3度目の未決から保釈出所後でした。

 私が王仁三郎を知ったのは、カリフォルニア、サンタクララ郡、いわゆるシリコンバレーとして知られている地域でフリージャーナリストとして働いていた時でした。

 様々な雑誌にテクノロジーやビジネスについて書いていました。1997年9月5日、人生を変える出来事が私の身に起こり、そしてそのことがこの本の執筆につながっています。

 その日、私の父親が78歳で他界しました。幸いに短い脳ガンとの戦いのあとでした。唯一残された子供として、私は少々落ち込みました。その落ち込みは数ヶ月続きました。

 ある夜私は2人の友人と話をしていました。友人達は私の町の近くの、カルファルニア、サンタクルーズ在住の芸術家であり教師のコーリン・キーベルト女史の授業を受けていて、 私に、彼女のクラスを受講するよう勧めてくれました。私は本当に落ち込んでいたので、どんなことでもよい事は試してみる価値があると考えました。

 1998年5月、私は初めてキーベルト女史のセミナーを受講しました。 彼女は粘土、絵、コラージュを用い、私たちの内面生活の活力である感情、イメージを私たち自身が探求できるよう導いてくれました。

 私はこのような芸術に対するアプローチに初めて出会いました。女史はお決まりの技術を教える事はありませんでした。何を表現したいかを考える事は、 どのように表現するかを学ぶ事より重要であると、女史は話してくれました。

 セミナーによって私の落ち込みは解消されませんでしたが、女史の手法は気に入りました。そして粘土が大好きになりました。 さらに多くの彼女のセミナーを受けるため、モントレー湾が一望できる彼女の工房に定期的に通いました。

 大本について、また大本で開催され、コーリン女史が参加した日本伝統芸術学苑の事などはその時はまだ何も知りませんでした。



前へ 次へ


TOP