『素顔の大本』ビル・ロバーツ著
/日本語訳 矢野 裕巳
はじめに
序文
プロローグ
プロローグ2
チャプター1-1
チャプター1-2
チャプター2-1
チャプター2-2
チャプター2-3
チャプター2-4
チャプター2-5
チャプター2-6
旅はスリッパで始まる 3
コーリン先生に陶芸の手ほどきを受けて数ヶ月後が過ぎました。
1999年、先生は大本へグループで訪問する計画を発表されました。この時、初めて大本のことを知りました。
彼女は王仁三郎について話され、王仁三郎作のお茶碗の写真も見せてくれました。私は、そのお茶碗のもつ魅力の虜になりました。鮮やかな色彩が土肌色のお茶碗という伝統的な考えを吹き飛ばしました。
王仁三郎の茶碗は過去数十年において日本での美的再評価を引き起こしました。一人の批評家は王仁三郎のお茶碗を「ようわん」(明るく輝く茶碗)と名付けました。ただ、カラフルすぎるという理由で、
ワビ、サビを重んじる一般の茶道家にとっては、容易に受け入れられるものではないかもしれません。もともと私は、革新的な考えが好きなので、王仁三郎のお茶碗が大変気に入りました。
そして、大本へのツアーに参加する事にしました。スリッパという難題も体験しましたが、大本への旅が終わるまでに、私は日本の完全なとりことなりました。
特に日本の景観の美しさ、日本芸術の奥深さに。
私はまた大本の人たちにも感銘しました。日本人のもてなしの心はよく知られていますが、大本信徒の親切は本当に素晴らしいものでした。
私は自分がいかに日本が好きになったのか、自分自身で驚きました。それまで、私は日本についてそんなに関心があったわけではありません。
ただ、振り返ってみれば驚くことではなかったのです。私の両親は 第2次世界大戦直後、日本で出会いました。父は陸軍将校で、母は陸軍民政局の秘書でした。
両親は1947年(昭和22年)東京で結婚しました。
共に進駐軍で働き、その仕事は自然環境の立直しでした。
今私は、日本の山野を歩く時、戦争で荒廃した終戦直後の日本復興に両親が多少の貢献をした事をしばしば考えます。
両親は日本での生活を楽しみました。富士山に登り、琵琶湖を船で めぐり、保津川下りも体験しました。保津川下りの出発地は当時も今も亀岡(写真左)で、大本本部から数キロのところにあります。
両親はジープで当時まだ全く舗装されていない道を北海道まで旅行しました。生涯の思い出に残る経験をしました。
私の子供時代、両親は日本で撮ったモノクロ8ミリやカラースライドを見せてくれました。
また、私は、初めて日本へ来るまで気付かなかった事があります。
私は1949年4月(昭和24年)日本で母の胎内に宿ったのです。両親が日本を離れ米国に帰国する3ヶ月前でした。
1999年4月の私の初来日は私が日本で母の胎内に宿ってちょうど50年目でした。
文字通り私は、メイドインジャパンそのものなのです。
最初の日本訪問中、一つの出来事が私の人生における日本の重要性
を明らかにしました。
私は奈良を訪問していました。奈良は日本の最初の都で、世界で最も大きな仏像がある事でも知られています。
その日は4月8日で、偶然ですがお釈迦様の誕生日でした。大仏様を見たあと、私は、爽やかな空気とまぶしい陽を受けながら、丘の斜面をのんびりと散歩していました。
満開に咲き誇る桜の下の緑地を歩いていると、突然強い感情が高ま り、鮮明な瞬間が感謝と共に湧き上がってきました。
こんな美しい国で出会ったからこそ両親はお互いを生涯の伴侶に選ぶほどの恋をしたのだと確信しました。
第2次世界大戦が終わり世界が平和を求め、人々が希望に胸を膨らませていた時代でした。
今現在、私が日本にいること、また50年前、日本で両親の遺伝子の中にいたことの喜びを強く感じました。
過去、現在、未来が1つにつながり、私の中で突然の悟りが開かれました。
私は2000年、2001年にもコーリン・キーベルト女史と共に日本へ戻って来ました。
私の書き手としての技術が認められそれ以後大本か
らいくつかのプロジェクトの仕事の依頼を受けました。
2001年の9.11同時テロの報復として米国がアフガニスタン攻撃を始めて1週
間後、私は大本国際部で3ヶ月ボランティアとして仕事をするため 日本へ向かう機内にいました。(私個人用のスリッパの支給はありました。)
英文の大本パンフレットを発行し、大本のホームページ (www.oomoto.or.jp)に記事を書きました。ホームページに書いた私の記事を読んで、大本国際部で大本についての本を書く話がでました。
しかし、私自身も国際部でも具体的な話ではありませんでした。
2002年、京都での「祈りとフォーラム」の取材に来日。2003年、イスラエル、パレスチナの子供たちを綾部に招待する「綾部プロジェクト」のため来日。
それぞれの折に大本の神の家にも訪問しました。「神の家」は地域の教会のようなものです。その訪問記も私が撮影した写真と共にホームページに執筆しました。
これらすべての仕事はより大きな仕事への礎となりました。最終的に1年で本を執筆する事に同意し、2004年10月から大本国際部で奉仕するようになりました。
私は沢山の大本のプロジェクトのお手伝いをしてきました。それは
私が大本のことが大好きであること、そして、もう1つの理由があります。
もし神があなたに1つの才能をお与えになっているなら、あなたはその才能を生活のためだけに使うのではなく、より広い意味で人々のために使うべきです。
私は本書を執筆中、しばしばトーマス、マートン(1915ー1968)の言葉を考えていました。彼はトラピスト会の修道士で著名な作家でした。彼は次のように言っています。
「自分自身を、また自分の持っているものを守り、自分自身でそれを独占している人たちは自己の才能を埋もれさせているのです。」
この事は特に芸術家や作家に当てはまると思います。私達は自身の才能を他人の利益のためにも使う責任があります。私は自分の技量を大本のために役立てる事を嬉しく思っています。
日々私は神に、ジャーナリストとして生業を立てていけていることに感謝しています。また自分の才能をより大きな事に使っていただけるように神さまにお祈りしています。
このような事を言えば、私が本当に理想主義者に聞こえるでしょう。もしそのように思われるなら、私は大本と相性がよいのでしょう。
大本には理想主義者が数多くいます。ジョンレノンが「イマジン」で賛美したように。「イマジン」は私の世代の人間にとって平和賛歌です。
「僕が夢を見てるって思うかな。でも僕ひとりだけじゃない。いつか君たちも一緒になって。世界がひとつになってほしい。」
王仁三郎はこの気持ちをきっと理解してくれるでしょう。
旅はスリッパで始まる 4
芸術と魂
大本の小さな作品展示室で初めて王仁三郎のお茶碗を見た時、この人は本当に夢みる人だなあと思いました。神秘主義者であり、先見性のある芸術家の魂が注入された素晴らしい宝玉がちりばめてあります。
王仁三郎のお茶碗は私の内面の何かを動かしました。
後に私は実際に王仁三郎のお茶碗を手にとり、お茶碗の持つエネルギーを感じ、そのお茶碗でお茶をいただく機会がありました。
大本信徒の家に私が訪問したことで、何年も押し入れにしまっていた耀わんを思い出すというケースもありました。
私は、自分自身の作陶において、茶碗造りにとりつかれるようになりました。私の陶芸技術は王仁三郎のレベルには到底達していません。
しかしそれでいいのです、芸術は神へ近づく道です。作品ではなく、 過程なのです。
王仁三郎のお茶碗によって、内ネ医であり、芸術家そして作家でもあるフレデリック・フランク博士も大本へ引き寄せられました。
1974年ロンドン訪問中の博士はたまたまビクトリア・アルバート美術館を訪れました。そこで博士が目にしたのは、「王仁三郎とその一門の芸術展」でした。
王仁三郎とその一門のお茶碗、書道、織物のコレクションが、ヨーロッパ、北米を舞台に3年以上12余りの会場で開催されている最中でした。
フランク博士はそれまで大本について聞いた事がありませんでした。耀わんについて「茶碗はまるでフランス印象主義派が描いた日差しの強い牧草地のようである」と
感想を語った博士はまもなく大本を訪問。
1ヶ月滞在して1冊の本「大本との出会い」を執筆しました。
この本や芸術展、また好意的な批評(全般的に海外で耀碗は高い評価を受ける)により、ある意味で大本は初めて世界的な注目を浴びました。
30年間、フランク博士の本は英文での簡潔な大本紹介として活用されてきました。(私もその恩恵を受けています。)
しかし多くの変化がありました。芸術展は大本の世界的宗際運動を広げました。教団は綾部に壮麗な神殿を建築しました。神殿は大本の宗教と芸術の融合の証明です。
2001年、出口なおの玄孫(やしゃご)である出口紅五代教主が新しい世代の指導者として就任し、教団をリードしています。
本書は多くの信徒、それは大本本部で奉仕されている方だけでなく
様々な職業に従事されている信徒の方から数年間にわたり執筆材料を得る事が出来た点でフランク博士の本とは違っています。
本当に色々な方にインタビューしました。
持続可能な農業に献身的に取り組む人、大本の教えを企業精神に取り入れようとするビジネスマン、神秘的体験を持つ人、茶道によって人生が変わったと話してくれた他宗から大本へ改宗した人、
共産主義者、無神論者からの入信者、演奏する時に神の存在を感じる音楽家、また環境問題、軍縮、世界連邦など様々な主張に取り組む活動家達です。
すべての人間がそうであるように、大本信徒にも欠点、短所を持つ人が少なくありません。
一日二回の礼拝(大本では朝夕二回の礼拝)を守っていない時があると個人的に打ち明けてくれた人。祝詞は1語づつ集中して唱えるのですが、時に急いでいる時は速度を速めてしまうと話してくれた人もいます。
少々お酒を飲み過ぎる人、また働き過ぎる人もいます。離婚経験のある人もいます。
離婚は西洋と比べればまだまだ容易ではなく完全に受入れられていないのではないでしょうか?(王仁三郎は惨めな結婚生活をダラダラ続けるよりは離婚した方が良いとも語っているそうです。)
2度の政府による弾圧に加え、大本は80年代に内部分裂を経験し、
その困難を乗り越えてきています。
大本信徒は社会的に、ある点で保守的です。私自身は違いますが。彼らはいくつかの問題で宗教的原理主義者と共通の主張を持っています。
しかし自分たちの信仰的信条においては一貫性を貫いています。彼らは中絶には反対です(避妊は認めています)また遺伝子組換え研究、移植、死刑制度にも反対を唱えています。
軍備、兵役訓練、戦争への参加等を同じフィールドで考えています。それは生命の尊厳だからなのです。あいまいな見解ではありません。
他の宗教に見られるような目には目をの精神は大本には存在しないのです。あたかも大本信徒は十戒の6番目をすでに読んでいたかのようです。「殺すなかれ」の言葉を理解していたのでした。
出口なおは謙虚な信心深い女性で世界の情勢にはほとんど関心がなかったようです。なおは世界の立替え立直しは自分の生存中に起こるか、あるいは自分の死後すぐにやってくると考え、
それを最も重要なことと考えていたのではないでしょうか。
出口王仁三郎は単に宗教指導者であるというだけでなく、時の人であり、社会的影響力を持つ人物でした。王仁三郎はまた複雑であり、二面性を持っていました。
政治的には極端な国粋主義から極端な国際主義までの広がりがありました。
王仁三郎はマートンの言葉の例外ではありませんでした。「矛盾は人の魂のなかで常に存在し続けている。」しかし王仁三郎は主張します。
「自分は常に自分に現れる神さまのご意思に沿って行動するのです」多くの場合そのご意思は国際的展望を意味しており、その事により困難に陥る事もありました。
王仁三郎は日本帝国主義政府の警察権力に異議を唱え、高い代償を払いました。通算で七年以上、三度の投獄を経験しています。
すべての宗教は同じ根源から発するとの解りやすい概念から王仁三郎は人類愛善思想を教義のなかに織り込みます。言葉だけでなく、行動で。
1920年代に彼が始めた外郭団体は今でも存在し、スリランカ、ネパ ールその他の地域で社会活動を行っています。王仁三郎はアジア、ヨーロッパの様々な宗教グループと提携しました。
またかつてモンゴルまで旅行しました。神さまが王仁三郎に理想郷をモンゴルの地に建設するよう言われたからです。この冒険は失敗に終わり、王仁三郎自身、もう少しのところで処刑されるところでした。
宗教的寛容は大本にとって最も重要です。それは、信者の魂の奥深い所から生まれています。亀岡でバーを経営する人が大本の友人に新しい居酒屋に名前を付けて欲しいと頼みました。
その大本信徒は「トレーロ」という名を付けました。トレーロは国際補助語であるエスペラントで寛容を意味します。大本信徒はこのエスペラントを学び普及に努めています。
寛容こそ21世紀において最も望まれることだと思われます。自分たちの聖なる使命は世界をイスラム化することであると固く信じるイスラム過激派。
パレスチナの存在を認めずパレスチナ人との対話を拒否する超正統派と呼ばれるユダヤ人。信教の自由を原則として建国された私の国、米国では、キリスト教原理主義者が台頭し彼らは自分たちの教義を国の法律にしようとしています。
このような宗教的不寛容が有史以来世界を混乱させてきたのです。
王仁三郎は、なおの啓示と自分自身の精神世界での経験を土台に、宗教的偏狭に対抗し続ける一宗教を確立しました。この分野での大
本の広がりは信徒10.000世帯、そのほとんどが日本国内といわれるこの小さな教団を考えればまったく驚きに値します。
何十年もの間、大本は様々な宗教と交流しています。
バチカン、イスラエルのラビ、シリアイスラム法学最高権威、ニューヨーク聖ヨハネ大聖堂(エピスコパル)、モンゴル仏教、また多くの日本の宗教と交流しています。
また、大本の芸術面からこれらの交流が始まる事もありました。
2005年、開祖大祭に参拝した聖ヨハネ大聖堂長ジェームス、コワルスキー師は挨拶の中で「大本は多くの理由でかけがえのない神からの贈り物です」と述べました。
また教主が女性である事、これは他の宗教にとって予言的さきがけであるとも語りました。
師は大本の宗際運動に対する努力と芸術への理解について取り上げ、自身の挨拶を次のように締めくくりました。
「大本の皆様との出会いは神からの贈り物です。皆様は世界平和をもたらす為に心から努力されているからです。」
大本本部からこの本の執筆依頼があった時、私は主に芸術面を強調して執筆する事になるだろうと考えていました。
大本の芸術はすでに多くの西洋の芸術家や日本文化を学ぶ学生の魅力となっています。
この本でも多くの芸術関係の内容があります(パート6)。しかし私は大本について勉強すればするほど宗際活動、平和活動の重要性を認識するようになりました。
私が大本で最も気に入っているのは精神的向上を目的とする芸術の実践です。大本の祭典そのものが芸術の形になっています。
私が大本で最も尊敬することは、平和への道を求めて他の宗教を理解しようと努力し、それが現実の活動に現れていることです。これ以上崇高な理念は考えられません。
この混とんとした世界において、大本信徒は宗教は向上するための力になり得ると考えています。たとえ一度に一人の人しか改心させることができないとしても。
政治、社会、宗教のそれぞれ広い分野における批評家は大本信徒をあまりにも無邪気で、観念論的、楽観的かつ相対論的であると笑うかもしれません。
現代の世界で権力をもつ人間は、少なくても王仁三郎の時代と同様、危険でしょう。
宗教の名の下で、民主主義の名の下で、あるいは石油という名の下で人々は一触即発の危険にさらされています。
略奪ともいえる資本主義と猛威をふるう消費主義の罪深い結合は地球を破壊する脅威となっています。
私は大本信徒をこの地球で最も良識ある人と呼びます。
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