『素顔の大本』ビル・ロバーツ著
/日本語訳 矢野 裕巳
はじめに
序文
プロローグ
プロローグ2
チャプター1-1
チャプター1-2
チャプター2-1
チャプター2-2
チャプター2-3
チャプター2-4
チャプター2-5
チャプター2-6
第2章 神秘なるものの中での感謝 2
祭員として
木村且哉(写真左)は本州西部、島根県松江市近くの生家の月次祭で祭官デビューしました。家族は月に2回、月次祭を行ってい
ました。家の月次祭とおよそ15名の信徒をもつ支部としての月次祭でした。家庭での月次祭の場合、米などのお供え物は
祭典の始まる前にご神前に供えられます。
木村少年は13歳で祭式講習を受けて以来、家庭や島根本苑で祭官奉仕する機会に恵まれました。
祭式講習を受けた翌年には、隔年、夏に開かれる少年祭で、万祥殿での開催奉告祭の祭官として奉仕しました。
「子供時代には毎月のように本苑月次祭にお参りしていました。」 木村は続けます。「献饌や玉串奉奠の八雲琴の音が大好きでした。特に献饌の歌が好きでした。
今でも献饌の歌を聴けばその頃を思い出す事があります。」
1965年生まれの木村は信仰3世で大本本部に10年勤務しています。最初の6年間は4代教主の運転手として
奉仕しました。4代教主昇天後は、国際部で、宗際交流やその他のプロジェクト、たとえば死刑廃止活動等に従事して
います。
木村は運転が好きで、大本へ奉仕する前、9ヶ月間北米を旅行しました。フロリダで買った車でニューヨーク、
トロントまで行き、そこからシカゴへ行き、車を売って帰国しています。木村は英語を話します。彼は親切でユーモアの
センスがあります。妻と幼い男の子が2人います。義姉・姉妹達は本苑の月次祭で伶人を務めています。
木村に大きな影響を与えた祖母は私がこの本を執筆中、93歳で亡くなりました。祖母は1935年第2次大本事件
勃発直後一晩投獄されました。祖母はかつて幼い木村を出口日出麿への面会に連れていきました。日出麿は3代教主の夫で
事件中に拷問を受けました。
木村は10代での万祥殿での祭員奉仕体験を次のように話してくれました。
「本当に緊張しました。献饌はうまくいきませんでした。何も落としませんでしたが、三方への手の添えかた、
それが重要なところなのですが上手くいきませんでした。指が開いていたのです。後で母が私に教えてくれました。
『あなたの手はあまり美しくなかったです。』と。母は私がすり足で進むべきところを歩いていた、
つまりかかとからつま先へと足を下ろしていたと話してくれました。母はその時撮った写真を見せてくれました。
私のどこが問題であったか解るように。」
「まるで少年野球で子供のバットの素振りをビデオに撮る親のようですね」と私は尋ねました。
「全くそれと同じ考えですね」とニューヨークヤンキースファンの木村は答えました。
木村はよく学びました。定期的に祭官奉仕している大本の職員がそうであるように、日常生活でも彼は常に上品に
行動しエレガントに手を動かします(指を閉じたままで)。今まで大本祭典で少なくとも50回は献饌を経験していますが
一度も何も落とした事がないと話しています。
「古代においてもし祭員が神への食べ物である献饌物を落とした場合切腹に値したと考えられていたそうです。
本当であったかどうかは私には解りませんが昔からの言い伝えの重要な部分であって、それくらいの緊張感をもって
取り組んでいます。誰も何も落としたくないのです。」
木村にとってどんな形でも月次祭に参加する事は幸せなことです。それは参拝者の1人でもいいのですが、
もし選択できるなら祭員として参加したいと思っています。
「祭員としての私はより神の存在を身近に感じる事ができるのです。」
神への道
信徒を神に近づける事が月次祭を始め、全ての大本祭典の目的です。日々の祈りもこの目的に沿っています。
1894年出口なおは部屋を借りて艮の金神を奉斎しました。艮の金神はなおの口を通して現れたのです。
そして大本の最初の月次祭が執り行われました。
それは、出口王仁三郎がなおの元へやって来る数年前でした。王仁三郎は後に古代神道の礼拝式を取り入れ
大本の祭式を創りました。また祝詞をつくり今日の月次祭で使われる讃美歌を著しました。王仁三郎は重要な祝詞を
作成しました。感謝祈願(感謝と祈りの言葉)です。また古代の神言を祈りに取り入れました。
ジョゼフ・キャンベル(1904-1987)は自著「神の仮面」の宗教と神話の信頼できる研究のなかで
神道の祭りについて次のように表現している。「神道の祭りは根源と自然への感謝を鼓舞する畏敬の認識と喚起への
儀式である。それは感性への芸術を表しているのであり言葉の定義力ではない。神道の生活とは神秘なるものの中で感謝と
畏敬をもって生きることです。」
この事は大本のすべての祭典にも当てはまります。たとえば献饌(けんせん)は自然への感謝の表現です。
祭り事は神道よりも古く、そのルーツは先史時代の霧のなかです。太古より家族は米、野菜、そして魚を木の前や自然に
宿る霊に対して山のふもとにお供えしてきました。
21世紀においても大本では米、野菜、魚、そして酒を(金竜海)池の前、木々、聖なる場所の小さな祭壇に
お供えしています。
祭典の始まる前にここを家族で巡拝する人を私はよく見かけました。古代の儀式が継続されているように
思われました。
大本は、古代から続く祭典の形式を採用していますが、いわゆる日本の新興宗教の1つです。新興宗教とは過去170年間に始まった何百ともいわれる教団の包括的用語です。その多くは現在の21世紀にも生き残っています。
大本は神道から発展し多くの慣習が神道と類似していますが、いわゆる神道とは違う部分もあります。その違いを理解する為には神道について少し知る必要があります。
まず始めに神道は厳密にいえば、多神教であり自然崇拝の形式をとっています。
カミは山、川、木、海、人、動物に宿り、そして天地の造物主です。カミの適切かつ直接となる訳語はありません。唯一あるいは複数の神、神霊、天使、造物主、そして神秘的存在物という意味でしょうか?日本の学者でさえ、この分野でカミを定義づける事の困難さを認めています。全般的に日本の宗教では神道だけでなくカミの概念は西洋の神の概念ほど厳格なものではありません。
西洋的一神教の観点からだけでは、神道始め他の日本の宗教を理解する事は困難です。神道は宗教的実践から発展し、その実践は神学的信仰を基盤にするのではなく祭務の励行に重点が置かれています。地域によって異なるこの実践は決して成文化されませんでした。また元来は教義、教典もなく一貫した創造神話や聖職者制度、教団宗教の特徴もありませんでした。神道は日本特有のものですが、世界中で見られる土着の信仰と類似しています。アメリカの先住民族やキリスト教以前のヨーロッパの信仰などです。
仏教が紀元後552年に中国から伝来し、そのことが神道と呼ばれる形の宗教が出来上がる引きがねとなりました。その時、急きょ古代からの実践が形式化され、専門職としての聖職者や一貫した祭典も創られました。それでも教義は作られませんでした。かつて私は一人の神主に彼の教義について聞いたことがあります。彼は「そんなものはありません」と言いました。「神の仮面」の著者キャンベルは神道について多くを書いていますが、つぎの神主の言葉でまとめています。
「私達には神学はありません。私達はただ踊るのです。」神道では最近になって初めて教義の形ができたのです。
神道という言葉は720年まで書物に表れていません。神道は2つの漢字で表され、仏の道と区別する為の「神の道」を意味しています。神道は仏教に反対するために成長してきたように思えるかもしれませんが、そうではありません。仏教は何世紀にもわたる天皇家の宗教でした。しかし神道とも平和的に共存していました。
そして両者はそれぞれの特徴を吸収しました。神道は重要な菩薩を神と受け入れ、仏教は重要な神を菩薩として受け入れました。今日神道神社を仏教のお寺の近くに見つける事がよくあります。またその反対もあります。
21世紀初頭の統計によれば、1億600万人の日本人が神道を信じている、そして9500万人が自分は仏教徒だと思っていると発表しています。日本の総人口は1億2600万人です。つまり多くの日本人は神道も仏教も共に受け入れているのです。
平和的共存の大きな例外は1868年に始まる明治維新から80年に及
ぶ期間です。将軍、武士の支配が終わり、天皇が権力を回復した時でした。3代に及ぶ天皇の時代であったこの期間は、第2次世界大戦の敗戦と共に終わりますが、天皇が神として祭り上げられた国家神道は唯一の合法的宗教でした。国家神道は支配する金権政治家によるプロパガンダの道具としても使われました。(西洋では宗教はローマ帝国がキリスト教を認めて以来およそ14世紀の間、国家の道具と
して使われてきました)
第2次世界大戦後新しい憲法では宗教の自由と政教分離を唱っています。国家神道は神社神道になり大本やその他の教団は教派神道として再び活性化されてきました。
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