『素顔の大本』ビル・ロバーツ著
/日本語訳 矢野 裕巳
はじめに
序文
プロローグ
プロローグ2
チャプター1-1
チャプター1-2
チャプター2-1
チャプター2-2
チャプター2-3
チャプター2-4
チャプター2-5
チャプター2-6
第2章 神秘なるものの中での感謝 3
神社神道には経典がなく神聖なる戒律も存在しません。人間一人ひとり、そして万物への敬意を教えます。
何千もの日本の神社神道はこれを実践することの重要性を説いています。
自然に存在する山、木、川の神が祭られていました。
古代においては自然そのものが神社で、人々は神が宿る神聖な山に勝手に登る事は許されませんでした。
後に作られた神社が自然の崇拝にとって代わりました。各神社には落ち着いた場所がありそこで祈り、瞑想します。
神道は日本の外では広まりませんでした。
信徒を増やすという使命がないからです。
神道では寛容、調和、そして尊敬を教えます。
公式な論文では神社神道を「森の宗教」と呼んでいます。
古代の生活は深く森と係わっていたからです。
かつて人は自分自身を自然と分離して考えませんでした。
神道には元来教義がありませんが、自然界は人間が操作しうる機構ではないことを私達に絶えず気づかせてくれます。
人間は自然の一部であり、自然は崇敬、敬愛へと誘導すべきものです。
私は大本と出会うずっと前から、また芸術の精神的価値を理解する以前から自然の持つ霊的な力を感じていました。
もちろん自然は神の芸術作品であり世界は神のキャンバスです。
私は10歳の時初めて山に登りました。当時私の家族はフランスで暮らしていました。
父はフランス駐留の米軍で働いていました。私はスイスのサマーキャンプに参加し、アルプスで3日間過ごしました。
最終日参加者はフランスとスイスの国境にある高い峰に登りました。
薄い霧が明るいそよ風に渦巻き、谷間の山道と絶壁を優しくなでました。
私は幼な心に、自分が今世界で一番高い場所の1つにいるのだと感じました。
その霧は神の霊であり私達を歓迎してくれていると私は確信しました。
放浪癖をもつ若者だった私にとって山ほど落ち着ける場所はありませんでした。
11歳になるのを待ちかねてボーイスカウトに加わりました。
そして、山や砂漠、海岸での体験は、冒険に満ちた14年間でした。
カルフォルニアの荒野、ビッグサーの山を海岸沿いに探検した時は、レッドウッドの木が生い茂る渓谷や不毛の岩で
ごつごつした峰をはうように進んで行きました。
後に私はヨセミテ渓谷、カルフォルニア東部のシエラ・ネバダ山脈をハイキングし、登山しました。
私はかつてホイットニー山脈の頂上であられまじりの嵐の夜を過ごした事があります。
アメリカ大陸で最も高い頂上です。
また、雷のなかワイオミングのミッチエル山を下山したこともあります。
ビッグサーでは異常なまでの猛吹雪に耐えた事もあります。
これらの冒険は何十年も前の事ですが、青年時代の夢であったクーガー(大自然)は今でも私に時折現れます。
このような荒野、未開の土地にいると、私は神の存在を強く感じます。
メソジスト教会の礼拝室にいるときよりもはるかに強く。
自然の安寧と調和を経験し畏敬の力と浸透する霊気におののきます。
神道において自然のすべてに神が宿ると聞けば骨の芯まで理解できます。
自然に対する考え方、また祭典、祭服、神殿を含めた外観の多くを見れば大本はまったくの神道ですが、
類似性の中に重要な違いが隠されています。
神道は通常教義をもちませんが、大本には教義があります。
また神からのメッセンジャー、つまり開祖と教祖がいます。
メッセンジャーは教典を生み出します。その教典を大本信者は神の言葉として考えています。
そして、大本は多神教としての要素を維持しながら、1つの重要な点で一般の神道とは違っています。
大本は「偉大な源」「偉大な起源」を意味し、人、神々、天使、自然や宇宙のすべての物に神が宿る、
しかし同時にすべての神は同じ偉大な根源から生まれた と考えているところです。
その根源は宇宙の神であり主神であり絶対神です。
あらゆるものは神霊の現れであり神霊はあらゆるところに広く浸透しています。
時代と場所の違いに応じて神は違った形態で人々の前に現れます。
しかしこれらの天使や神々は同じ1つの偉大な根源から出現しているのです。
少し聞いているとユダヤ、キリスト教的伝統である一神教と類似しているようにも思えますが、
より深く大本を調べてみると微妙な違いに気づきます。
そもそもユダヤ、キリスト教的伝統を大本と比べる事は困難です。
特にユダヤ、キリスト教的伝統と言ってもきわめて多岐に分かれていて、一口でまとめる事はできません。が、
少し我慢して私の説明に耳を傾けてください。
大本は一神教であるといってもさしつかえないでし ょう。
しかしアブラハムの宗教とは大いに異なります。
学者はユダヤ教、キリスト教、イスラム教を排他的一神教と表しています。
唯一神の存在のみを信じその他の神は偽りだと主張しているからです。
大本のような宗教は包括的一神教を代表していて、多くの神々の存在を認めます。
すべての神は本質的に同じで、どんな名で神を呼ぼうと、どんな宗教儀式で神に呼びかけようと違いはないのです。
これが、大本が他宗派との合同礼拝に快く取り組んでいる一つの理由です。
他にも注意すべき違いはあります。大本教主が女性である事もその1つですが、
これは後の章で詳しく述べるつもりです。
違いのなかにはより微妙なものもあり、見逃してはならないものや軽視できないものがあります。
自然に対する重要性は根本的に違います。
ユダヤ、キリスト教的伝統では神と人間は基本的に分かれており神は自然を超えたものです。
大本では神と神の現れたものは、人間、自然を含め同じ神霊からのもので、より密接に関連しています。
これはまた神道や初期の民族宗教にもあてはまります。
次のように指摘する学者もいます。
日本神話によると太古の男女によって初めて創造された子供達は島々でした。
人間と神がその後に創造されます。
当然神や人間は、島々に代表される自然より上にくるとか、敵対するとかではなく、
むしろ1つの家族のような関係でしょう。
神話から近代科学へ話を進めましょう。大本信徒は人ゲノムの解読を歓迎しました。
大本は各宗派の祈りと対話のため、2002年世界宗教フォーラムを開きました。
そのフォーラムに著名な生化学者である村上和雄筑波大学名誉教授を講師として招待しました。
教授は現在の科学で、すべての生き物の遺伝子コードの類似性が証明されたと語りました。
すべての生き物ー人間、動物、植物などの、それぞれの細胞ーは本来同じでありそれぞれが敬意をもって
扱われなければならないとの話でした。大本信徒が長らく信じてきた事を、科学は理論的に証明したのでした。
このような自然への強い思い入れの流れからも、大本と神道は善悪の考え方が
ユダヤ、キリスト教の考えとは違っています。キャンベルは次のように書いています。
「神道の基本的道徳観は、自然の過程、自然現象がすべて悪ではないという事です。
この点で純真な心は自然の過程、自然現象と一致しているという原理が存在してきます。
人間は自然の産物であり悪をもって生まれるのではなく、純真で神聖な存在としてこの世に生まれるのです。」
大本の教義では人間も世界も潔斎は必要ですが、キリスト教徒が理解する罪のつぐない、あがないとは違っています。
カール・ユングはエッセイ「東洋と西洋、その思想の違い」の中で書いています。
「東洋では内面(魂)は、常に外面(エゴ)よりも強い影響力を持ってきたので
世界は内面の根幹を自己からくずす機会がなかった。
西洋では外面が優勢なので内奥から完全に切り離され、1つの心、単一性、不確定、永遠性が1つの神の特権として残った。
人間は小さき者、つまらない者、そして本質的に過ちを犯す者として考えられている。」
この最後の文はユダヤ、キリスト教に共通した考え方です。大本教義には原罪のようなキリスト教概念はありません。
「小さき者、つまらない者、そして本質的に過ちを犯す者」という神と人との二元性は大本には存在しません。
この二元性は大本には存在しない、神と人の、より厳格な階層制度を生み出しています。
大本は多神教と厳格な1神教との掛け橋になれると思います。
その教義は1神教的側面を持ちますが、多神教的意識をも維持しています。
すなわち万物の霊や魂の存在を認めています。大本はその多神教的意識の曖昧さを受け入れています。
その曖昧さは宗教的多様性を受け入れるに必要な要素ではないかと私は考えるようになりました。
反対に排他的1神教は曖昧さや矛盾を受け入れる能力に欠けていて、それゆえ、
時に悲しいことに力の行使につながっていきます。
ジェームス・ヒルマン(1926年生まれ)は現代の最も偉大な分析心理学者の一人です。
彼も「心理学再考」のなかで1神教に関連するコメントを残しています。
彼は、1神教の思考は現代人、いいかえれば西洋人をエゴの奴隷へと導き、
人間だけが神聖なる魂をもつと信じていると主張しています。
「神聖なるものへの真の焦点として、また唯一の魂を持つ存在としてのキリスト教的人間の考え方はこの視点を基礎にしている。
デカルトの心理学もこの人の考えが基礎になっている。
デカルトは生きた主体と死んだ対象物に分けられた宇宙を想像していて、中間の、曖昧なそして比喩的な空間は存在しない。」
後に彼は、「多神教的意識は、意味の曖昧な神話によって、またそれぞれの瞬間、それぞれの場面で
人々の多様性によって気づかせてくれる。」と話しています。
大本では人間は神、自然と調和し和合しながら活動する事が人生の目的であると教えています。
人の役割は神、自然と一体になって世界を立替え、地上に神の王国を築くことです。
なおの啓示、王仁三郎の解釈はきわめて明白です。
人は神の道徳原理に帰依し、我よし、プライドをぬぐい去り、
お互いに仲良く自然と調和した生活を送らなければなりません。
多くの人がこのような生活を送る時代が来れば、なおが言うように、神がこの世に天国を築き上げることができるでしょう。
大本の教義は19世紀の米国の超絶論に幾分似ていると思われます。
これは東洋の宗教に影響を受けています。当時東洋の宗教教典が西洋言語に翻訳され始めていました。
超絶論はすべての創造物の統一を、そして人間の本質的善を、論理や経験よりも直感が深い心理への道であるとする信条です。
ラルフ・ワルド・エマーソンを始め作家、芸術家がこの考えを発展させました。
彼らは文学、文化の開花を促し、人間の高い情感や美的感性に訴えました。
そしてそれが月次祭の目的の1つであると思われます。高い情感や美的感性に訴えかけます。
教主、祭員、そして信者の素朴で優雅な動き。彼らは感謝の気持ちで月次祭を行います。
茶道の芸術性とも似ています。もっとも茶道の歴史は祭典より新しいでしょう。
毎月の月次祭は同じ形態で行われますが決して退屈しません。
それぞれの祭典に私は魅了され、私の祭典への芸術的観賞力を深めてくれます。
参拝者の情熱にも圧倒されます。
しかし実際の祭典はそれほど違ったようには感じないでしょう。
あなたが大本信徒のように、殿外の移り変わる季節の変化に注意を払わなければ。
写真下 大本出雲本苑での直会(なおらい:祭典後の昼食会)
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