『素顔の大本』ビル・ロバーツ著
/日本語訳 矢野 裕巳 かぼちゃと巡礼者のプロローグ まずは潔斎を! カボチャと巡礼者 2
はじめに
序文
プロローグ
プロローグ2
チャプター1-1
チャプター1-2
チャプター2-1
チャプター2-2
チャプター2-3
チャプター2-4
チャプター2-5
チャプター2-6
このうだるような暑さの7月初旬の午後。神様は私達の関心を引こうとされたに違いありません。
少なくとも私の関心は引き寄せられました。
3台のバスで日本海沖の神聖なる島の巡礼へ出発するため、私は100名の大本信者と共に綾部の神殿の外に立ってい
ました。
弱い雨が数時間降り続いていました。小雨はやがて始まるどしゃぶりへの前触れに過ぎませんでした。
耳をつんざくばかりの雷鳴が鳴り響きました。
それは、大本信者がいつものように祈りの前におこなう4拍手が始った時でした。私達が神言を奏上しようとした時いやな暗がりが
地をおおい、私の前腕ほどに分厚い稲妻が丘を突き刺しているように見えました。
そして突然豪雨となりました。
6月、7月には雨がよく降ります。モンスーンの時期には稲作のために命の水がもたらされます。
しかし、どしゃぶりはまた別です。日本滞在中、このような激しい雨や雷鳴、稲妻を経験した事はありませんでした。
神は我々が望むなら私達の場所に現われる事を私は信じるようになってきました。大本信者はそのように理解しています。彼等は日常の畏敬や不思議に慣れています、とりわけ自然の神秘に通じています。私は出発の天候について強調しすぎることも、また軽く扱いすぎることもしたくないのです。私は何かの前兆を聖書風に受け止めました。お祈りが終わると激しい雨をさけるため私達は屋根の下へと押し寄せました。
私達のバスが90分雨の中をよろよろと進んで行く間も自然のドラマは続いていました。時にはバスの中からほとんど何も見えなくなりました。どのようにドライバーが安全を確保して狭い山道を通り海へ抜けたのかははっきりしません。嵐の中を進んでいきました。まるで原始時代の霊の世界へ突き進んで行くような感じがしました。京都の北西80キロにある綾部から北へ、丹後半島の港町舞鶴へと進みました。丹後半島は日本海へ突き出ています。我々はその後一夜を海辺の村で過ごしました。翌日早朝私達は3隻の商業用ボートに分かれ無人島である沓島へ向かいました。広大な若狭湾沖40キロにあります。
丹波地方にある綾部は大本のエルサレムであり出口なおが1892年55才で初めて神憑かりとなった所です。なおはこの時から昇天までの26年間霊的状態でした。なおは何千枚もの紙に自動書記で神の言葉を記録しています。最初の神がかりで小さな教団の設立を宣言しました。そして、その教団の影響力は常にそのサイズの大きさからは想像出来ないほど大きなものとなります。もし綾部が大本のエルサレムなら沓島は大本のシナイ山ともいえるでしょう。艮の金神がなおの体内に懸り世界の立て替え立て直しを宣言するまで3000年間お鎮まりになっていたのが沓島です。
教主を先導に5年ごと大本の信者は短いながら危険な旅に出かけます。あるいは出かけようと試みます。『5年前は、台風で現地へ上陸出来なかったのです』なおから5代目となる現教主はそのように私に話してくれました。『この事を常にこの1年間考えてきました。私達の歴史においてとても重要な場所であり、神聖な島なのです。』とも話されました。
大本の初期の歴史において重要な2つの巡礼があります。艮の金神の指示に従い、出口なおは少数の信者とともに1900年8月沓島参拝をしています。一行はなおの娘すみこ、また娘婿であり、教祖の一人となる王仁三郎を含む9名で、当時沓島は誰も足を踏み入れていないといわれていました。新月の穏やかな海を夜通し船をこぎ、不毛の火山岩の唯一接近出来る所ですばやく上陸したのでした。島で彼等は神を奉斎し世界を清めるために祈りを捧げました。5年後の1905年5月再び艮の金神の指示のもと、なおと2人の信者は沓島で12日間をわずがな水とわずかな食料で過ごしました。日露戦争の間世界平和を祈ったのでした。今回の我々の巡礼はその時から数えて100年にあたります。21世紀の大本の信者はなおと同様祈りの意義を固く信じています。そして沓島で私達は祈りました。
私達の巡礼が始まった時これは、2000年の時の繰り返しになるかもしれないと思いました。幸いに雨は豪雨であり台風ではありませんでした。宿泊地の村へ着いた夕方までに雨は止んでいました。徐々に薄暗くなっていくころ、私は砂がぎっしりつまった海岸を歩いていました。波は岸に打ち寄せ、空はどんよりと、空気は湿り、蒸気が立ち込めていました。その時でも私はバッタの群れが出てきそうない不吉な気持ちを感じ、また半ば期待もしていましたが、まだ数週間はセミの時期ではありませんでした。(旧約聖書、出エジプト記より)
小さな村は貧しい人達のたまり場で漁村でした。私達が1泊した宿は飾り気のない古びたところでした。私は4人の大本のスタッフと共に小さな2階の部屋で1夜を過ごしました。編集関係のスタッフ、雑誌関係のスタッフ、そしてカメラマン、ビデオ担当者達でした。夏野菜、新鮮なさしみ、魚といった栄養満点の夕食の後、我々は床につきました。眠れない夜でした。布団は私にはあまりにも薄く、私のサイズには合いませんでした。消灯前に、100円つづ集金しコイン式エアコンを一晩使う事にしました。
沓島へ出発する前、私は9ヶ月大本に滞在していました。わたしにとってこの6年間で7回目の訪問でした。大本とは偉大な根源を意味し、神道派の宗教ですが、我々が考える伝統的な神道とは重要な違いがあります。これについては次の章で詳しく説明します。私は沓島巡礼の前にすでにこの本の数章を書き終えていました。最初の未信徒でしかも外国人として沓島現地参拝が許されたのは、私が30年ぶりに英文で大本についての本を執筆していたからでした。参拝するためには潔斎が必要でした。
潔斎は大本の根本です。信者は祈り、祭典、そして様々な活動を通じて世界を清めようとします。1年で最も大きな祭典である節分の目的は潔斎にあります。しかし大本では潔斎は個人から始まると信じています。信者は重要な行事に参加する時、常にあの潔斎を行います。祭官は少なくとも奉仕前の数日は潔斎に当てます。潔斎の方法は人により様々です。神は個人に潔斎の方法を決める意志をお与えになっていると大本信者は信じています。
前回の現地参拝が実現しなかったため、今回は10年目の沓島現地参拝になります。
それだけに、信者達は今まで以上に潔斎をより真剣に受け止めていました。『参拝前の私達の潔斎は今回の成功にとって非常に重要なものでした。』教主様は参拝後の私のインタビューに答えてくれました。『もし現地参拝前の私達の潔斎が十分なものでなければ、このように成功裡に終える事ができなかったと思います。すべての大本の信者がたとえその信者さんが現地参拝されてなくても共に一体となって潔斎してくださったのです。大本のすべての人々の祈りです。地方の神の家において、各家庭において私達の成功をお祈りしてくださったのです。』
沓島現地参拝を許された人達にどのように潔斎をするのか聞いてみた事があります。
たいていの人はアルコールをやめ、ふだんより時間をかけて、お祈りし御神書を拝読するという答えがかえってきました。大本の信者さんはビールやお酒が好きな人が多いので、アルコールを断つというのは自然かもしれません。私はアルコールはたしなみません。大事な事は好きな物をやめるという事でした。私はチョコレートが大好きで特に執筆中にはよく食べたくなります。そこで私はチョコレートを3週間やめることにしました。そして、毎日英訳されたお筆先を拝読する事にしました。英訳されたなかには2度の沓島参拝の内容もありました。
私が沓島現地参拝に参加するとのうわさが広まるにつれ、潔斎をどのようにするのかを私に質問する人が多くなりました。ビルさんがチョコレートをやめているという事実がひろく知れ渡りました。そのことについて誰かが私に質問しないで一日が終わることはありませでした。通常英語が出来なくて私に話しかける事のなかった人達も『チョコレート』の単語で私に話しかけてくれるようになりました。特別あつらえの巡礼服を仕立ててくれたお針子さんまでも何かを伝えようと話しかけてくれました。
何を語ってくれているのかは私には理解できませんでした。私の解る単語は『チョコレート』だけでした。
ついに私は有名人になりました。私が執筆を続けていたからではありません。私が
沓島現地参拝への最初の外国人だからです。私は著名人になりました。それは、私が113年の大本歴史上チョコレートをやめて潔斎をした最初の人間だったからです。

天地創造の夜明け
コイン式の冷房で眠りの浅い夜が明け、直の玄孫(やしゃご)である写真家、出口飛鳥さんは目覚めると外へ出かけました。空は今だインクより黒かったのです。数分後部屋に戻った彼は、しばらく興奮して日本語で話していました。そしてカメラを持ち急いで外に出て行きました。何が起っているのか私にも理解出来ました。私は服をひっかけ、カメラを掴んで飛鳥さんの後に続きました。ビデオの責任者、成尾陽さんもす
ぐ私の後に続きました。私達は海岸までの2プロック、狭い道を全力で走っていきました。
私達が目撃しようとしたものは天地創造のような夜明けでした。
海岸は空気が湿って重苦しく、まるで一晩中気温が下がらなかったようでした。私達は日本海の西岸にいたのですが、
地理的急カーブによって東西の海へと広がりを持つ北に面した海岸線にいました。
私達が立っていたところから海と空は1つの大きなビロード状のマントに見えました。
どこかに地平線があるはずですが、見つけることはできませんでした。
暗がりで必死に目をこらすと最初にオレンジ色の縫い目が現われてきました。
それはゆっくりと大きく広がり、空と海は2つの黒っぽい灰色に分かれていきました。
その裂け目が大きくなるにつれて小さな2つの物体が現れました。大きい方は『烏帽子』と呼ばれる先の
尖ったヘルメットの1つのように見えました。それは大本の祭官が祭典で頭につけるものです。
小さい方は、木製うるし塗りの履物に見えました。それは「靴」と呼ばれ、戸外で履きます。
信者が2つの島にニックネームをつけました。烏帽子は冠島で靴は沓島です。私の望遠レンズでさえ、島ははるか彼方に見えます。
数分でオレンジ色の縫い目は薄黄色のひろがった筋に変わってきました。そして淡い灰色の空は脅威となりませんでした。
旅館に戻り、味噌汁、ごはん、干魚、つけもの、お茶(そして、町角の自動販売機の缶コーヒー)での朝食後、私達は白い巡礼服を身につけました。私達の旅館には約40名の男女が宿泊していました。
この旅館はバスの駐車場から一番近くにありました。
60名以上の人は別の2つの旅館で宿泊しました。まもなく、皆はそれぞれの宿舎から無言で通りに出てきました。その様子は白蟻の行列のようでした。
埠頭はバスで10分程のところにありました。波止場に到着するまでに、灰色の空は薄い雲へと変わり、霧は青々と茂った丘に立ちこめています。雨の降る気配はありませんでした。
鷹と海ワシが頭上を飛び交うなか、漁師は夜の漁で捕った魚を選り分けていました。魚のにおいがあたりに漂っていました。
まもなく、舞鶴のホテルで宿泊された教主様と側近の方が2台の車で到着されました。教主様は全身白の巡礼服を身につけ、麦わら帽子をかぶっておられました。
微笑みながら、私達に挨拶をされ、何度もおじぎをされてお祈りの先達をされました。特別なファンファーレもなく我々107名は3隻の船に乗船しました。
同じ型の3隻の釣り船は長さ約50メートル、幅5メートルでした。私は3隻目に割り当てられていましたが、どういうわけか教主様が乗られている1隻目の後ろで2隻目に変わっていました。
港を出た時、この種の大きさの船に最後に乗ったのはちょうど9年前である事を思いだしました。サイディエゴ沖合へ友人の子供2人を案内した時でした。その時我々の内2人は船酔いに悩まされました。
この日の海も決して穏やかではありませんでした。波止場を出て最初のうねりにぶつかりました。後に波は50センチメートルに達していたという人もいました。
とにかく荒れた海でした。船酔いに悩まされる人も出てきました。私は船酔いはありませんでした。多分へさきで写真を撮っていたからでしょう。船はうねりの中で上下に激しく揺れ、そのたびに私のレンズに塩水が吹きかけられました。
岸からおよそ40キロ離れた冠島が最初の上陸予定地でした。冠島もまた大本の歴史に現われます。神様のお導きにより直と数名の信者の一行は1900年冠島を訪れます。
それは沓島への最初の訪問の数カ月前です。神話によれば、冠島は竜宮城にあたります。冠島は近づきやすい浅瀬とごつごつした岩の海岸で、緑の葉の生い茂る峰があります。
それに対して沓島は大変な急斜面があり深さ100メートルの海で囲まれています。
それぞれの船には先達が乗船していました。海に出て30分程過ぎた頃、私達の船の先達が4拍手をして神言をあげ始めました。
綾部を出発した時、また波止場を出た時と同じ祝詞でした。同じ船に乗船の30名以上いた我々も共に祈りました。祝詞は2度、3度と続き20分後に冠島沖に近づくまで続きました。
もともとの計画では冠島への短時間の上陸が考えられていました。しかし波が高く
上陸するには余りにも時間がかかり危険が伴いました。私達は船上で再び祈り冠島
の群葉に敬服し、遠くからお宮の入り口を見つめました。波の穏やかな日には、冠島は釣り人やダイバーに人気のスポットです。若狭湾は豊かな生き物の宝庫です。
とくに甲殻類が豊富です。湾はまたカモメ、カツオドリ、ミズナギドリそしてその他海鳥の巣であり、その多くは沓島をねぐらにしています。その事を我々はまもなく知る事になるのです。
祈りの後、私達は冠島の西側を巡航し真北へ3キロ、沓島へ向かいました。私達は再び祈り始めました。目的地が大きく見えるようになればなるほど波は高くなりました。
近づけば近づくだけ不吉な予感を感じました。島全体が完全な絶壁に見えました。唯一上陸可能な小さい場所があるとの事ですがまだその場所は私の視界には入ってきませんでした。
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