『素顔の大本』ビル・ロバーツ著
/日本語訳 矢野 裕巳 カボチャと巡礼者 3 かぼちゃと巡礼者 4
はじめに
序文
プロローグ
プロローグ2
チャプター1-1
チャプター1-2
チャプター2-1
チャプター2-2
チャプター2-3
チャプター2-4
チャプター2-5
チャプター2-6
芸術は自己が見い出すところに存在する
大本信徒は日本伝統芸術を各自の宗教的生活の一部として実践しています。信徒はまた神は最も偉大な芸術家であり、
大自然は神のキャンバスであると信じています。大本にしばらく滞在すればその事が理解出来ます。
月明かりにてらされた水田も私の目には墨絵のようにみえるのです。
大胆な書道のひと筆も松の木々のふしと鋭利な角に存在するようにも。
また春や秋の丘には出口王仁三郎作のお茶碗の色彩豊かな模様が見えるのです。
めしまに近づくにつれ次のように考えはじめたのでした。神がめしまをお作りになった時、
ボルカスのような日を選ばれたのではと。
故ピーター・ボルカスは米国人で私のお気に入りの陶芸家の1人です。
彼の作品は陶器の抽象的表現主義です。
大きな彫刻のうつわをつくりだします。彼はそれを、火に入れる前にわざわざずたずたに切り、
へこませ、変型させるのです。典型的なボルカスの作品は激怒した神がかじりつき、かみちぎり、
つばを吐きかけた大きな陶土の鉢ようなものです。
おそらくめしまは実際世界の原始時代の魂ではないでしょうか。
より正確にこの恐ろしい程の美しさを表現する為に。
島はアンデス山脈の岩盤に似たかたいアンデス風の岩で出来ており1883年のクラカタウ火山爆発からの
マグマを冷やしたのでした。ほとんどの安山岩は高度なシリカ(2酸化ケイ素)含有量をもっています。
その為表面はでこぼこあるいは鋭敏になるのです。
めしまの表面もまた、かなりあばたでおおわれており、アンデス山脈の模型地図ににているのです。
あたかも神が空気ドリルで穴をあけたかのように。
島がいつ形作られたのかは、科学者にも解っていませんが、1300年前の巨大な地震がもともとの
岩盤の大部分の塊を海にしずめ、360もの階級のある絶壁を創造したのでした。我々人間がいかに
ちっぽけなものであると感じるのです。西端は少なくとも100メートルの高さで東端は60メートル程です。
私達は南側からの上陸を予定していました。植物が少なく、無数の鳥が生息しています。
鳥はこの島が保護されていると知る事はないでしょうが、恐ろしい程の鳥の数です。特にしまミズナギトリが多いです。
日本語でのこの鳥の名前は英語よりはるかに詩的です。『オーミズナギドリ』
まもなく、我々が上陸する予定の唯一の低地が見えてきました。およそ30メートル突き出た自然の波止場でした。
そこから険しい坂に続きなおが不眠で祈った頂上の引っ込みがあります。最初の船が下船初めました。
しかし、予定の波止場からではありません。
1900年、なおが最初の旅に出た時、素早い王仁三郎が手こきの船から飛び込み波止場の険しく
短い側へ進みました。開祖伝によると海から波止場の上までの距離はその日およそ5メートルであったと書かれています。
私達の到着した日は5メートル以下であり、それが問題でした。潮は高く、波のうねは高く膨れ、
波は岩を強くげずるのです。船を少しづつ動かし、岸に近づけ波止場へ上陸する方法がありません。
最初に到着した船の船頭は船を東へ25メートル険しい絶壁へと動かしました。白服の奇襲部隊のように、信者達はへさきから絶壁へと飛びおりていました。私は状況をけっして大袈裟に表現したくはないのですが。
絶壁はおよそ40度の傾斜で垂直から程遠いのですが、島の残りの部分の表面のように、あらく、鋭利で、あばたがあり、
でこぼこなのです。平衡感覚を保ちながら歩行することを困難にしているのです。
最初の船が引き離されました。そして、私達も体制を整え始めました。我々の船頭さんはへさきを崖に
動かそうとしていました。潮津波が最高潮のなかエンジンを動かし続けていました。そうする事により、
船は何とか前方に波をはねあげながら、転覆を免れていました。波のうねりが上下するにつれ、
安山岩の上でへさきは上下に擦られていました。
私は3番目に下船しました。体がゆれていました。
まだうねりの中にいるようでした。それから崖を形成した難儀なくぼみを徒歩で通過しなけ ればならなかったのでした。
私の背後のくぼみをさけながら、左側をはうように進みました。私と同じ船に乗り合せた者の半数はへさきが反動で
はねかえる前にすでに下船していました。
船頭さんはいくぶん穏やかな水域へ船のむきを変えました。おそらく20分程かかったと思います、
船に残った人達が島へ飛び降りる事のできる適当な場所を見つけるまでに。そうこうする内に、3槽目の船が似たような
方法で下船したのでした。
私達は今危険なジグザグ針路を防波堤へ続く崖にそって角をまがり、入り込みへむかわなければなりません
でした。その状況を把握した時、一番にきずいた事はすべての鳥のふんでした。どんな鳥かごの底よりも醜かったのです。
抽象的印象派のテーマの話しを続ければ、神は岩一面にピチャピチャのはねを散らす絵の具の
ジャクソン・ポーラックのなかに存在した事をそうぞうしてみてください。
そしてそれはまだ進行中の作品であり、我々がそこにいたいた間も継続させられていた芸術でし た。
この時なせ我々が白い服を身につけていたのが解ったのでした。あばたの中の巣には卵もありました。
余りにも沢山の卵があり、もしこれが100円硬貨ならコイン式のエアコンをうしとらのこんじんが世界の建て替えを
たてなおしを終了まで利用出来たのではと考えました。
鳥の1団全体が定期的により高い崖からヒッチコック映画のエキストラのように離れていました。
波を裂く音、むちでうつような波、とりの泣き声で我々の話す言葉はほとんど聞き取れませんでした。
どうしてここにハンドマイクが用意されているのがわかったのでした。私達は鳥の襲撃から身をまもりながら、足場の安定しな
い崖にしがみつき水上から10メートルの地をすすんでいきました。西の方向へおよそ25メートル移動し波止場の方向へ
低地を超え波止場の方へ進みました。そして祭壇が設置されているくぼ地へもどったのでした。
祭典のための祭具一式を運びこまなければならなかったのでした。
またお琴のテープ、お茶道具、綾部の御神水、玉串の松、 おそなえの野菜。
果物、お米、酒、そしてカボチャ等です。教主様はこの日の為に御自分の有機畑でカボチャをお作りになりました。
これらの荷物をかかえて107名の巡礼者は崖を回避し波が炸裂するところを超え、波止場まですすみ、なおが100年前に
12日間祈り続けたくぼちへすすんだのでした。
教主様と2人の側近が先導しました。すばやくがけをよこぎり、低地を超え、波をさけて波止場まで
のぼっていきました。そこまでは順調でした。しかしまもなく数人の巡礼者が低地を超えようとした時波に襲われた
のでした。
その日の波が悪戯好きである事がまもなく明らかになったのでした。3度目の波が毎回大きい事にきずいた
私はタイミングをはかり、すばやく動き、ぬれずに低地を超える事ができまし
た。
念のためカメラはもう超え追えた人に渡していました。荷物を運ぶ事は当初の心配よりも問題が少なかった
のです。波止場を見下ろす隆起部にいる人達にとって波止場の人に荷物を手渡す事は可能であったのでした。
2つの地点はそんなにも接近したいたのでした。それでもその二地点はまだ遠くにありました。
およそ40名の人が波止場に登った後、誰かがエえるのは止めたのでした。
余りにも多くの人が波に衝突したからでした。半数以上の人が波止場の上の隆起部に留まっていました。
残念ながらすべての人の位置から祭典の様子が見えたわけではありませんでした。
耳だけで祭典に参列する人達もいました。
祭官として祭典に奉仕される人達はすばやく祭壇を整え、すべてのお供物を整えたあと、祭官服に着替えていました。
教主様は何かジッと考えこんでおられるように見えました。後に教主様はこの時の事をお話くださいました。
『このときは本当に心配しました。多くの巡礼者は60才以上の年令で、この巡礼が想像以上に困難を伴うことになると
考えたからでした。』
教主様はこれより以前に2度目島現地参拝を経験されていました。
4代教主時代と3代教主時代です。どちらの時も今回のような危険を感じる条件ではなかったとお話くださいました。

祭官がすべての準備を終えた後、教主様は一番置くの祭壇の前でひざまずかれました。
そこは開祖様がお祈りをささげられた場所なのです。下は海が荒れ狂い、上は鳥が飛び回るなか、
教主様はお茶をたてられました。
もっと正確に言えは、茶道をおこなわれたのでした。
御自分でつかられた茶色のお茶碗にお茶をたてられたのでした。お茶の作法にしたがい茶しゃくでお茶をあわだたせて
お茶をたてたあと御神前におそなえになりました。
通常の大本宗教祭典のなかでお茶をたてる事はほとんどありません。
私自身は2度目の体験でした。件茶式のあと、教主、祭官はくぼ地の険しい坂に位置をしめました。
だれかが、録音テープをまわし、すべての祭典に使われる八雲琴の音色がながれました。祭典のはじまりです。
40分間、しゅうばつ、のりと、玉串ほうてん、そして教主とともに斉唱するのりとがあり、最後は私を除いて全員が
そらで覚えている基本宣伝歌で祭典が終了しました。
芸術は自己が見出すところに存在する 後編
基本宣伝歌が終わりに近づくにつれ、太陽は高くなり、心地よい風が私たちを包んでくれました。祭典は終了しました。祭官は烏帽子をとり、陸にいる人達にそれを手渡していました。
誰かが指示を出し、最初の船が陸付けされました。この日の最初から自分の乗船する船を決めておくという厳しい指示でした。陸に散らばった人達がどのように自分の船を見つけるのだろうかと考えていました。実際には上陸するときの船がどの船であろうと陸にいた巡礼者は最初に用意された船に乗船していきました。
突起にいた我々は、波が衝突する低地を超えなければならなかったのでした。潮は満ちはじめ波は突起と船につながるがけの間のくぼんだ所へ炸裂していました。祭典が終わると人だかりになる前に私は波のタイミングをはかりながら、その場所をぬれずに超えるこえる事ができたのでした。後に聞いた事ですが、私の岩上での機敏さに多くの人が驚いたそうです。わたしの肥満型体型を考えてかなり予想外であったようです。私は武道を習得していると思った人もいるそうです。実際30年前のヨセミテでのロッククライミングの経験が役たちました。
若い人達が低地を挟んでロープをつなぎました。しかし波が炸裂したときには、実際には唯一有効的であったのは、運を天に任せるか、若い人達の手助けの頑張りだけでした。陸の高台から私は写真を撮っていました。ぬれずにわたれた人、ずぶぬれになった人、それは陸地にたっている若い人達にも言える事でした。若い人達の介添えがなければかなり多くの年配者がけがをしていたでしょう。かわりに若い人の中にはけがをした人もいたと思います。
出口なおの助けがあったようにおもいました。教主様はぬれる事なく移動されました。
二艘の船が私たちを運んでくれました。私は最後の船でした。教主様の船でした。明るい日中の太陽の元最後の行事に入りました。
覚えていますか『かぼちゃ?』 この章のタイトルの1部です。竜宮の乙姫様にお供えするのです。
神話によるとめしまとおしまのあいだにおすまいされているのです。
その地点に我々が到着するとお祈りがはじまりました。そして、教主様は小さなカボチャを投げるのです。およそ12個、1つづつ。下手投げで遠く船からはなれたところまで。
カボチャをつかうのは開祖、出口なおがカボチャをつかったからでした。教主様はまた青竹に入った綾部からのご神水を海に流されました。我々はその後もう一度お祈りし船を走らせました。
すべての行事がしゅうりょうしました。およそ1時間の波止場への船旅をたのしみました。焼けるような太陽と津列な海風のなか。

洗練された狂気
海へカボチャを投げ込む、先祖の霊魂にお茶を点てる、鳥のふんのもとで祈る、危険な巡礼、神話と歴史―おしまを通って波止場へもどるあいだ、これらすべての神秘について私は考え込んでしまいました。
出口なおのお筆先の1節を思い出しました。『大本はこの道をはずれた世界の精神を改めるのであるから、大本の信者は少々現在の人々の目からみれば愚かで馬鹿げていると見えるかもしれぬ、しかしそのような人達でなければ神の意志にしたがい、
日々仕える事は困難である』
時に、大本信者は愚かでまったくかわっていると見える事があります。しかし彼らはなんと『洗礼された狂気』なんでしょうか?
大本信者はしばしば愚かなように見えます。彼らは神話の重要性をたかく評価しています、そしてそれをあらゆる手段で使うのです。―
祭典、芸術、そしてその他。神話を自分達の生活に結びつけるのです。彼らの神話、なお、王仁三郎の話は実際におこった事です。しかし、その他のすばらしい神話同様、信者の情緒、心情、創造力に影響するのです。大本が強調する世界の統一、
自然、平和を伴い、大本の神話は日常生活から切り離す事はできないのです。神話の力は大本での多くの面で大本の日常と交差するのです。
歴史をとおして大本は日本、世界において波及効果つまり型の役割をはたしていると考えているのです。それは、教団の大きなから考えてもきわめて壮大な考え方でしょう。
大本教団の初期数十年は日本を虜にした工業化、軍事化に対して大本はそれぞれ精神的ビジョンを提供したのでした。
当時の政府は脅威を感じ、2度にわたり大本を弾圧するのでした。20世紀の後半、大本は日本伝統文化を保持する事に寄与します。 当時、日本は再び近代化に大きく傾いていた時代でした。大本はまた世界の主なる宗教間の宗際対話を促進する働きをしてきました。
過去数十年において大本は他の宗教教団を生み出してきました。大本から派生した教団が数多くあります。大本は世界連邦運動、核廃絶、環境問題にも取り組んできました。これらの活動の中心には祈りがあり祭典があるのです。めしまでの祈りはよりドラマチックな祈りでしたが、日々信者が各家庭でおこなう祈りも同様の誠実なものなのです。
以上の事について深く考えている自分にきずきました。そして船がすすむにつれてより深く考えはじめていました。
波止場への距離がちょうど半分になった頃、教主様のそばにいかせていただきました。へさきでひなたぼっこをされていました。その日初めてやさしくほほえまられました。
後に教主様は島でお祈りを捧げている時祖先や全国の信者の霊を感じられと話してくれました。私は教主様の写真を撮らせていただきました。そしてそばにいた人に教主様との写真を撮ってもらいました。
そしてその日初めて教主様が私に話しかけられました。私が理解できたのは『チョコレート』ととう単語1語でした。
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