ビル・ロバーツの大本探求(その1)
2005年 5月15日 出雲本苑春季大祭後の講演
/日本語訳 出口 美鈴
こんにちは、ビル・ロバーツです。よろしくお願いします。
本日は出雲本苑月次祭にて講演させていただく機会をいただき光栄に存じます。また私にとって本日で、
大本の本苑・支部では12番目の参拝となり、講演させていただくのは8カ所目の神の家です。
皆さまご承知とは思いますが、私は大本本部から、日本語圏以外の読者を対象とした、英語による大本についての本の執筆を依頼されています。
その読者というのは、特に芸術家、宗際運動家、平和論者たちです。そういった、大本に魅せられている人々は増え続けています。
私は、この仕事のために10月に来日し、これから6カ月間滞在する予定です。
もちろんその本では、出口王仁三郎について書きます。実際に今、何章か書き綴っているところです。
もし、出口王仁三郎にとって出雲本苑が重要であるとするなら、今日お集りの信徒の皆さまにとって、西洋的な視点から王仁三郎がどのように
語られるのかをお聞きいただくのは、とても興味深いことと拝察しております。
執筆に当たって、私は常に、西欧の読者が大本を理解しやすいようにと、『たとえ話』を探しています。つまり、ある点においては王仁三郎に匹敵するような
、西欧社会における著名人について考えることにしています。
2、3カ月前のことです。私は、出口京太郎氏にインタビューをし、「西欧において、あなたの祖父(王仁三郎のこと)を思い起こさせる人物は誰か」
とたずねました。京太郎氏は、考える時間が必要だと答えました。
1カ月後、私は返事を受け取りました。3ページに及ぶそのリストには、20人以上の名前が1人ずつ箇条書きにされており、そのほとんどがアメリカ人でした。
私は、そのリストにあがったすべての名前に賛成することはできませんでした。しかし、西洋社会に王仁三郎のような人物は存在しないという、
京太郎氏の見解には同感です。
京太郎氏は、彼の祖父のことを「大渦巻きのような人物で、その全てを理解する人間はほとんど無い」と言いました。その点において、
私はまったく彼の言う通りだと思います。
王仁三郎の人生を見て、私は、彼は詩人であり、陶芸家であり、激しい批評家だと思いました。そして最も重要な点は、彼は予言者であったことです。
王仁三郎は文筆家として、アメリカ人作家マーク・トゥウェインのように多作の書き手であり、ユーモアに富んでいます。また、
『オリバー・トゥイスト』や『ディビッド・コパフィールド』の作者である、19世紀イギリスの小説家、チャールズ・ディケンズのような社会的道徳観を持っていました。
しかしながら、王仁三郎の最高傑作、83巻にも及ぶ壮大な作品『霊界物語』は、ダンテを彷彿させます。ダンテは、15世紀のイタリアの作家であり、
『神曲』には、彼の旅した天国や、地獄、中有界の様子が書き記されています。
宗教的意義を抜きにしても、『霊界物語』はすばらしい文学的傑作ですが、西洋ではほとんどその存在が知られていない点が残念なところです。
その長さと叙事範囲において、『霊界物語』は聖書やコーラン、古事記に勝っています。また、『ベーオウルフ』(8世紀、英文学初の頭韻叙事詩)や、
『ギルガメッシュ叙事詩』(前20世紀、メソポタミアの楔形文学作品)、古代ギリシャの詩人ホメロスによる『オデュッセイア』(前8世紀)といった、勇壮な叙事詩を超えています。
視覚芸術では、王仁三郎は私にミケランジェロを思い起こさせます。書画、彫刻、陶芸など、彼の才能には限界がありません。その最高潮点として、3千個以上もの茶碗を
生み出しました。
王仁三郎は、ウイリアム・ブレーク(1757~1827/英国の詩人・画家・版画家)が絵画で用いたのと同様の手法で、耀わんを使いました。
ブレークは18世紀イギリスの神秘主義者で、詩人であり芸術家です。彼は自分の絵画作品を通じて、自らの神秘主義的体験を視覚によって人々に伝えました。
耀わんや『霊界物語』執筆だけでも、1人の人間が一生をかけて成し遂げるものではなかったでしょうか。しかし王仁三郎はまた、10万もの短歌を作り、書画を描き、彫刻をし、「歌祭」を復活させました。
王仁三郎は大本祭式を確立しました。また祭典に用いる「のりと」や「賛美歌」もたくさん書きました。この点では、王仁三郎はジョン・ウェスレー(1703~91/18世紀英メソディスト教会の創始者)に似ています。
ウェスレーは、メソディスト教会における聖歌の半数と賛美歌のほとんどを作りました。その教会で私は育ちました。
王仁三郎は、芸術の価値は最終的な作品にあるのではなく、むしろその過程にあると説きました。彼は“芸術は特別な人のものではなく、普通の人間が自分の内面をみつめ、神に近づくためのもの”であると述べています。
カール・ユング(1875~1961/スイスの心理学者・精神医学者)は、心理学の先駆者で、王仁三郎とほぼ同時代を生きています。ユングは、芸術活動の重要性について、王仁三郎とよく似た結論に達しました。
また、王仁三郎は「万教同根」を説きました。ユングもまた、人間心理の研究によって、王仁三郎に近似の結論を導き出したのです。
「すべての宗教の根源は同じ」という素朴な概念から、王仁三郎は、博愛主義、人類同胞主義というものを生み出しました。それは、言葉だけでなく行動においても示されました。
人類愛善会という、王仁三郎が創始し、現在もスリランカやネパール等で社会的活動を続けている団体があります。皆さんも、耳にしたことがあると思いますが、来月モンゴルセンターが開所の予定です。
王仁三郎は、アジア全域、またそれ以外の宗教団体との協力関係を構築し、そのことは、今日も進展中です。また王仁三郎は、神命による理想郷を築くため、かつて一度モンゴルを訪れたことがあります。その冒険は失敗に終わり、彼は危うく銃殺刑に処されるところでした。
入蒙記の内容はまるで、旧約聖書を読んでいるように感じました。
王仁三郎に匹敵する国際的な視野を持った人間を西洋社会に見つけるのは難しく、特に、彼と同時代では困難です。20世紀後半に着目する必要があります。例えば、国連のコフィ・アナン事務総長の名が挙げられるのではないでしょうか。
すべての中でこの点が最も重要ですが、王仁三郎は生涯において世俗的問題においても常に精神的、霊的原則を基礎とした立場を貫いた宗教指導者でした。その原則は宗教界だけでなく、すべての日本人から期待を集めた原則でした。
アメリカ独立宣言を起草した、第3代大統領のトーマス・ジェファーソンと同じく、王仁三郎は人権と平等を主張しました。
王仁三郎は激しい批評家でもあったので、常に政府に対し疑問を呈し、当局を憤慨させていました。
この点において、彼はトマス・ペインのようです。トマス・ペインはアメリカ独立戦争の指導者であり、英国王室を批判した最初の人物です。もしくは、繰り返し古代アテネの政府を批判し続けた、古代ギリシャの偉大な哲学者、ソクラテスのようでもあります。
植民地支配という熱狂の中、国民はますます過激になっていきました。王仁三郎は生涯を通じ、大日本帝国政府に警告を発しました。それはガンディーやルターと同等の倫理的権威を持つ言葉でしたが、残念ながら、結末は同じになりませんでした。
王仁三郎は旧約聖書の予言者のごとき能力を持ち、13、14世紀のキリスト教神秘主義者のような神秘体験をしていました。その神秘主義者というのは、スペインのアビラで生まれたテレサ・カルメル会修道女であり、ドイツのドミニク修道会士であったマイスター・エックハルトといった人々のことです。
歴史上の預言者は、王や皇帝、独裁者や政府に対して挑戦していきました。王仁三郎も同じでした。その行動の中で彼は、20世紀における日本人宗教家のうちで、最も知性とカリスマ性に富んだその人物像を確立したのです。
しかしながら、出口王仁三郎という人は、時に矛盾をはらんだ複合的な人間でした。そして問題の火種のような人物でした。
時の政府から脅威と認識されていた彼は、7年半に及ぶ二度の投獄を経験し、長年、警察の監視下におかれました。
王仁三郎は当初、出口なおの、彼を快く思わない側近たちから命を狙われましたが、巧みに逃れてきました。
彼は霊的な巨人であり、実物よりも偉大であり、恐ろしいほど人間的でありました。王仁三郎の考えには理屈では理解できない考えもありました。しかし彼は、自身はすべて神の命によって動いているのであると宣言しているのです。
京太郎氏は賛同してくれました。京太郎氏は、「王仁三郎が自分の意思で行動したことはただひとつもなかった。彼は神の命じられるままに行動した」と私に語ってくれました。
最後に申し上げたいことがあります。王仁三郎はまさしく理想主義者であり夢想家でありました。
ロバート・F・ケネディ(1925-1968/USA第35代大統領ジョン・F・ケネディの実弟。同政権の司法長官を務めた)はよくこう語りました。「物事をそのまま受け止め、なぜそうなのか、と問う人がいる。私は、物事というのは、ひょっとしたらこうだったかもしれない、なぜそうではないのか、と問う」
王仁三郎は、それと同じ考え持つ理想主義者であり夢想家でした。同じく夢想家のジョン・レノンは、『イマジン』という曲の中でわれわれに語りました。
その歌詞にはこうあります。「あなたは私を空想家と呼びますが、私はそれだけにとどまりません。いつの日か、あなたはわれわれとともになり、そして、世界は一つになるのです」と。
これらの言葉は、出口王仁三郎と共通し共鳴するのではないでしょうか。
今日は、私の話をお聞きくださり、ありがとうございました。
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