モンゴル滞在記(その5)/東南部の旅の巻 後編
人類愛善会宗教協力推進室次長 山田歌男
(その1)
その2)
(その3)
(その4)
(その5)
(その6)
午前4時に起床する。当然外は真っ暗である。
今日はモンゴルで「聖なる山」と呼ばれているシリンボグド山(海抜1800m)に登る。
この山はチンギス・ハン時代の大昔から「聖なる山」として人々の信仰の対象となっていた山だ。
昔から女人禁制で、いまでも女性は登ることは出来ないという。
後方の山が「聖なる山・シリンボグド山」
モンゴルが清国に300年間支配されていた当時、男達がこの山に登りお互いの帯を交換し兄弟の契りを交わしてから清国に抵抗して共に命を落としたという男達の誓いの場所だ。
またこの山に登る者は「運が開ける」「願いがかなう」
としてモンゴルの男達のあこがれの場所でもあるという。モンゴルの男達は一生に一度この山に登りたいと言っているが、
ウランバートルから陸路で1000キロも離れている山である。そう滅多には行けない場所だ。
モンゴルセンターのツェデンダンバ会長やバトツェレグ理事でさえ、この山には一度も登っていないという山である。
またこの山には一つの物語がある。清がモンゴルを支配していた当時、清国皇帝はモンゴル中から選りすぐりの馬、牛、
羊を数万頭も集め、この山の周囲で飼育し乗馬や食用にしていたという。だからこの地方の家畜は血統が良く、
馬は速く走り、家畜のお肉が美味しいと言われている。
その清の時代に一人のモンゴルの英雄が現れ、
皇帝の家畜をたくさん盗みだし死火山の火口に隠したという。火山の火口は周囲から中が見えないので絶好の隠し場所だ。
そしてその英雄はモンゴルの西の果てまで盗んだ家畜を運び、貧しい人々に分け与えたという。
そのような英雄物語が残る山としても知られているのだ。
だから中国が内モンゴル自治区を事実上モンゴルから奪い支配した時も、モンゴルの男達はこの山だけは必死で守り抜いた
という。
バギーさんが「いま持っている服を全部着下さい。恐ろしく寒いよ。そして風で身体が飛ばされないように注意して。」
という。その状況があまり想像できないが、とにかく言われた通りに服を何枚も着込む。
山までは村の小学校の先生と道に詳しい村人が案内をしてくれる。午前5時、車に乗り込みマイナス20度の雪原をひた走る。
2時間走ったところで車は急斜面を登り始める。山に近づいたようである。かなりの急勾配ですごい道だ。
ちょうど鉢伏山の頂上付近まで車で登るような斜面で車が転げ落ちないかと心配になる。
ようやく8合目に到着し車を降りると、すごい強風で身体が飛ばされそうになる。
本当にすごい風だ。風速18mはあるだろうか。油断すると飛ばされそうになる。身体をかなり斜めにしないと立っていられない。
ちょうど台風の現地リポーターの「すごい風です。立っていられません」とレポートしているようなものである。
もし飛ばされたら山の稜線から数百メートル滑落して死んでしまうだろう。
しかもマイナス30度の強風が吹き付けているので防寒具が役に立たない。防寒着や防寒靴を通り抜け寒気が肌に刺さる。
分厚い手袋も役に立たず手足の感覚はすでにもう無い。体感温度はマイナス40度以下だろう。
「ヤバイ。まじでヤバイ」と
思ったが一人車に残るわけにもいかず、あきらめてバギーさんの後について一歩一歩山頂めがけて登ることにした。
途中2~3回飛ばされそうになりながらようやく頂上に着いた。頂上には立派なオボがある。
早速礼拝をしてオボを回る。オボの風上に回るときは強風で身体を飛ばされないように注意しなければならない。
礼拝を終えてから、聖地から持参したご神水をオボと頂上の大地に注ぐ。水を大地に注ぐと風に乗って水が
飛ばされていく。水はモンゴルの遙か空に輝きながら消えていく。
バキーさんは愛善会の旗を持ち「愛善会の旗がこの山に登ったのは初めてでしょう。
ここは天国に一番近い所です。聖師様に一番近い場所ですよ」と言っている。
オボの風下は風が穏やかだ。ここでやっと一息つく。バギーさんたちは持参したウオッカ、お米、線香など
数々のお供え物をお供えしている。私もお米をオボに撒く。見るとオボの周囲は沢山の人々が注いだ酒が凍って大きな氷塊
となっている。
(写真左)歓喜の瞬間だ。
しばらくすると20人ほどの男達が登ってくる。頂上に着くと皆叫び声をあげて感激している。
そしてめいめいに祈り始め供え物を供え始めた。オボに撒く酒が風にあおられて我々に降り注ぐ。
衣服に付いたウオッカが一瞬にして凍ってしまった。男達はお互いに抱き合いながら歓喜の声を上げている。
まさしくここは男達の山である。
この山に登るときは、各自が干支の旗を持参し、このオボに括り付け願い事をするのだという。
私はETTに用意してもらった辰年の旗をオボに括りつけ、願い事がかなうようご祈願する。
これが私の旗。名前と歳を書く。辰年の旗である。
お祈りが一段落したころに朝日が昇り始める。それとともに山の周囲も明るくなってきた。
見ればそこはこの世の景色とは思えないほど美しい景色が広がっている。周囲には火山の火口がたくさんある。
登ってきたこの山もおそらく火山であろう。神々が造られたこの山、この大地、この自然にただただ感動するしかない。
山頂で記念写真を撮ったが、私は寒くて顔が出すことが出来ない。モンゴルの人たちは大丈夫だろうが、
日本人には耐えられない寒さである。せっかくの記念写真だが私の眼しか写っていない。
そして私のデジカメも寒さで動作不良をおこして停まってしまった。
40分程頂上にいただろうか。私はもう限界である。早々に下山を開始する。下山して初めて山の全容を知ることが出来た。
山の姿や周りの景色が鉢伏山に似ているような気がする。いや、まさしくここはモンゴルの神の山「鉢伏山」に違いない。
凍傷になる寸前で山をおりることができた。生きて帰れたことを感謝する。
帰る途中でラクダの群れに出会う。
ホテルに着き遅い朝食を頂く。やっと身体も暖まってきた。
さあ十分にご神徳をいただいたところで贈呈活動を開始することにする。
小学校は我々の滞在するホテルのすぐ横にある。学校長の案内を受け学校内に文房具を運び入れる。
この小学校はダリガンガ村小中学校、生徒数は490人、教師は30人がいる。
今回は小学1~2年生120名に文房具を手渡しすることにする。
いつものように愛善会の説明のあと文房具を配る。首都から遠く離れた国境の村の小学校ではあるが、
熱心な教育が行われており生徒たちも皆礼儀正しく明るい。
説明を熱心に聞く子どもたち。
どこかで見たような男の子。
子どもたちの表情は皆明るい。
この小学校でも子どもたちの歌のプレゼントがあった。子どもたちの気持ちが嬉しい。
いろいろな歌を唄ってくれる。
真ん中の女の子は歌の天才少女だ。
この小学校では4クラス120分の文房具を手渡し、残りの文房具は先生に託し後で生徒達に配ってもらうことにする。
ここではノート720冊、鉛筆1440本を贈呈した。
贈呈活動も終わり学長室で先生方と懇談する。学校長は女性でドルゴルマーさん、
旦那さんも同じ学校の先生で数学を担当している。この旦那さんは以前アンハーさんの学校で教鞭をとっており、
悪ガキだったアンハ[さんをよく殴った話がまた出てくる。
アンハーさんは相当な悪ガキであったようだ。
前列左が学校長、後列左がご主人。
先生たちが我々の活動をねぎらって「シミーンアルヒ」というこの地方の地酒を出してくれる。
これは羊のミルクを発酵させ、それを蒸留してアルコール分を取り出したお酒だ。お酒といっても
水のように無色透明で炭酸の抜けたサイダー水のような甘みがある。軽いお酒で水のようにゴクゴクと飲んでしまいそうだが、
後からかなり酔うそうである。以前ロシア兵士がこの酒を飲んだ後に「このうまい水を汲んでいる井戸に案内してくれ。
汲んで帰りたい」といった笑い話があるお酒だ。そのような地酒を頂きながら今後の愛善活動について意見交換がなされた。
学校長と同席していた教育委員長は「今後、私たちは愛善会員として皆さんの活動のお手伝いをします」と協力を約束していただく。
文房具の贈呈活動がきっかけとなり、愛善活動への理解が広がるのが嬉しい。
贈呈活動も終えて帰路につくことにする。
ウランバートルに帰るのも2日がかりで帰ることになる。もう午後2時半を過ぎたので急がなければ日が暮れてしまう。
バギ運転手に運転をまかせ我々は車中の人となる。
2時間ほど走ったあたりで車は道に迷ってしまった。モンゴルでは道路標識はほとんど無い。
行き先は方位や山や丘、星を目当てに道を決め進むのだ。道といっても前の車が通った轍が道である。
その轍が二手に分かれるときに方向を間違えてしまったのだ。
車はあちこちを走りながら、ゲルを見つけては町の方角を聞いている。聞くと言っても遊牧民は遠い地平線を指さし
「あっち」と教えてくれるだけだ。
とうとう日が暮れてしまった。視界は車のライトが照らす範囲だけである。目標となるものが何も見えない。
見える範囲はライトの光のみ。
しかも今夜は雲がかかって星も見えない。車はあちこちを彷徨い始めた。車外の気温はマイナス25度、
もし途中で車がトラブルを起こしたら非常に危険である。それに車の燃料も4分の1を切っている。
バギーさんは「モンゴルでは冬の夜に車1台で走ることは非常に危険で絶対にしてはいけない。
もし車が止まったら数時間で凍死しますから。これは鉄則です」と教えてくれる。
ではなぜ我々は車1台だけで冬の夜を走っているのだろうか。実に不思議だ。
アンハーさんも「もし車が走れなくなったら、車の燃料がある間だけの命ですよ。
燃料が無くなったらあとは車を燃やすしかありません。それで暖をとり、燃やした煙で遭難を知らせるのです。
でも誰も通らなかったら、まあそこで終わりですね。結構それで人が死んでいますよ」と話している。
「それはやばいじゃないか」と思いながらも彼らに頼るしかない。
結局4~50キロ道に迷った後、
やっとのことで目的地の町に着くことができた。モンゴルの冬を旅することは、かなり大きなリスクを背負いながら旅をする
ことになることを実感した。
初日に立ち寄った村に着いたのはすでに午後9時半を回っていた。バギ運転手の家で包子をいただく。
生きて再び包子たちに会えたのが嬉しい。でも包子を食べるのはもう結構である。夕食を済ませたら再び寄宿舎で寝かせてもらう
ことになった。
旅に出てから4日目の朝を迎えた。今日は一日かけてウランバートルに向かうことにする。
寄宿舎で包子入りの乳茶スープを頂き、途中アンハーさんの親戚の家に寄っては包子をいただく。
包子が夢に出てきそうである。
車は草原を快調に走る。
しかし昼過ぎに突然ブレーキがギーギー鳴り始めた。左前輪のブレーキパッドがすり減ったらしい。
これではディスクがいかれてしまう。ここからウランバートルまではあと400キロほどある。このままでは走れない。
途中の町に立ち寄り交換する部品をあちこち探したが残念ながら見つからない。
修理をするバギ運転手。余裕である。
するとバギ運転手はロシア製トラックのクラッチ板を部品屋で購入し、それを修理工場に持ち込み
、工場の親父と一緒にブレーキパッドの形に切り取り細工してディスクブレーキに取り付けてしまった。
クラッチ板をブレーキパッド代わりに代用したのだ。このすごい修理の様子を感心かつ心配しながら見ていると、
みんなは「大丈夫だぁ」と言っている。志村けんじゃあるまいし、本当に大丈夫かと思っていると、
そのまま車は時速80キロで走りウランバートルまで無事に帰ってしまった。
バギーさんは「日本じゃこんなことやらないでしょ。
部品が手に入らないモンゴルではよくやるよ。バギ運転手はエンジンもトランスミッションも全部ばらせるよ。
修理ができない奴はモンゴルで運転手は務まらない」と言っている。
モンゴルという国の凄さを感じた瞬間だ。
そんなこんなで夜9時に無事ウランバートルに到着した。
あれこれ色々な出来事が多すぎて記事にするのが困るような充実した旅であった。
(終わり)
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