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基調講演『パレスチナ人から視た中東和平への展望』 2006.11.29

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  去る11月29日(日)、東京渋谷区にある國學院大学・百周年記念館にて、 第28回世界連邦平和促進「全国宗教者平和会議」が開催され、400名の宗教者・関係者が集まった。

 基調講演には、パレスチナのエルサレムアルクドゥス大学教授ムンサル・ダジャーニ博士が招かれ、『パレスチナ人から視た中東和平への展望』 と題して講演を行った。

 以下は、その講演文。

 

 まずはじめに、パレスチナのエルサレムアルクドゥス大学を代表して、本日ここにお集まりの皆様方、このような名誉ある大会に私をお招きいただきました皆様方に心からの感謝を述べたいと思います。

 ご来場の皆様方、 アラブイスラエルの長い紛争の歴史において、現在ほど重要な時期はないと思います。この地域における我々の選択が賢明で理性的でなければ、そして我々が過激的な偏狭さに対して十分な監視を怠るならば新たな暴力の連鎖を引き起こす事になるでしょう。

 個人的には、今回私にとって初めての日本です。しかし私の家族を通じて日本とつながっています。私の伯父、ハジ・アリ・タヘル・ダジャーニはヨルダン、アンマンの日本名誉代表を務めておりました。それは日本政府がアンマンに大使館を設置する以前のことです。その事を私達家族は本当に名誉な事と考えています。

 少しく私自身の事をお話させて頂きます。私は1951年エルサレムの旧市内で生まれました。もっと詳しく言えば曾祖父(そうそふ)の家であるグランド・バザールで生まれました。それはその他多くのエルサレムに住んでいたアラブ人と同じように、1948年の戦争中、わが家も西エルサレムを離れ東エルサレムへと移った後でした。

 私はアメリカンクエイカースクールで学びました。そこで私は宗教的寛容と他人を受入れる事を学びました。エルサレムのセントジョージ高校を卒業後ビアゼイトカレッジで学びました。その後カイロのヴィクトリアカレッジにも留学しました。

 当時エルサレムの家庭から子供を家から離れた予備校へ通わせたり、数年間人格形成期に海外で高い教育を受けさせる事が流行していました。私は米国で学業を終了しました。大学卒と2つの修士課程、1つの博士課程を米国で得る事になったのでした。

 私は12年間米国で生活しました。米国での生活は様々な面で私の思考形態に影響を与えました。米国で生活する事は多くの事を知り多くの事を感じ、体験することでした。

 たとえば、時間を有効に使う事。時間を守るという事。自己の主観的かつ情緒的判断を離れ自分自身をより客観的に評価できるようになったと思います。

 米国での生活によって私は自分自身を外から見る事が出来ました。米国での生活は自分自身の内面と感情を養う為の展望を得たと考えています。

 若者として私は故郷の事も考えていました。パレスチナ、アラブ世界を解放するという「アラブ統一」を掲げたエジプトのナセル大統領の呼びかけに大きく影響を受けました。シオニストからパレスチナを植民地主義からアラブ世界を解放する呼びかけです。

 1968年、私はパレスチナ解放運動に参加しました。しかしそれ以後様々な経験と教育を受けた私は政治的にいわゆる左派から中道へと変わっていきました。また白か黒かのゼロサムゲームから双方が満足できる共存の道をめざすようになってきました。

 私達のセンターはイサム・サタウィ博士の名前を冠(かんむり)にしています。センターはサルタウィ博士を記念して設立されました。博士は医師であり神系科の臨床医でもありました。博士は1979年クレスキー賞を受賞しました。

 サルタウィ博士は1983年パレスチナ過激派グループによって暗殺されました。暗殺されたのはポルトガル、リスボンで開催された社会主義者大会で前イスラエル首相シモン・ペレス氏との会談中でした。サルタウィ博士は包括的かつ公平な平和を達成する道を探るパレスチナ平和運動の開拓者の1人と考えられています。博士はイスラエルと対話を始めたパレスチナ人の1人でもあります。

 サルタウィ平和と民主化推進センター所長として、私達はアルクドゥス大学をスポンサーとして平和、寛容、そして共存の促進のための平和活動を組織し実行に移そうとしています。

 アルクドゥス大学は学術研究者が国際的研究機関や大学またイスラエルとの学術研究プログラムを共同で行う権限をもつパレスチナ唯一の教育機関です。

 学問的レベルにおいて、センターの活動は合同教育プログラムを企画することです。他の大学との共同研究をそれぞれの大学のカリキュラムで適応できるようなプログラムを考えるのです。

 私達は昨年大学院生対象のプログラム(パレスチナ、イスラエル、イタリア合同プロジェクト)を開始しました。ユネスコがスポンサーとなり修士号をめざす取り組みです。このプログラムで、私達は20人のイスラエルの学生と20人のパレスチナの学生を教えました。プログラムの半分をそれぞれ地域の大学で学び、残りの半分をローマの提携大学で学ぶのです。ローマではイタリアの学生も参加します。最初のグループの学生が先月卒業しました。

 社会レベルにおいて、私達はパレスチナ、イスラエル両サイドの紛争に関わる人たちへの共同体奉仕プログラムにも取り組んでいます。認識向上セミナーを訓練、組織することや、また政治的社会化やリーダーシッププログラムに関わる概念の政治的普及等をめざすのです。

 これらのプログラムの中には私達パレスチナ社会では幾分異論があり、タブーでもあるものも存在するのです。とりわけ、男女の権限に関する問題がそうです。我々の伝統的な子育ての方法や価値観と衝突する考えも含まれるのです。

 皆様、ここで現代のパレスチナ紛争を簡単に振り返りたいと思います。アラブ、イスラエル紛争の根源は1917年の英国のバルファー宣言に始まるのです。英国外務大臣バルファー卿が英国政府を代表して他人の土地であるパレスチナ譲歩を約束するのでした。この地域にとって異質であるヨーロッパのシオニストに約束したのでした。

 この事はパレスチナ人のジレンマの本質なのです。1917年11月2日、114語で要約されたシオニスト運動家への約束の手紙が紛争の根源にあるのです。

 英国、フランス政府はその前年1916年、サイコス、ピコ条約を結んでおり、英国は何とかうまく2つの約束を達成する方法を考えなくてはならなかったのでした。

 サイコス氏は英国外務大臣であり、ピコ氏はフランス外務大臣でした。彼らは1916年には秘密会談を始めていました。その時には、ロシアの外務大臣も同席しておりオスマントルコ帝国の領土分割を協議していたのでした。

 第1次世界大戦後のベルサイユ平和条約の結果として、英国、フランス政府は国際連盟構想の可能性を考えました。今日イラク、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルと呼ばれる地域は英国の委任統治となり、現在のシリア、レバノンはフランスの統治下になりました。ロシアは皇帝にかわる新しい政府として排除されたのでした。

 1920年代パレスチナへのユダヤ人の移民は加速されました。混乱と政治的不安定の到来です。これに続いて1936年から39年のパレスチナ人の大きなストライキが起こります。1939年から1945年の間、第2次世界大戦の間シオニストはユダヤ軍を組織し連合軍を助けます。戦争終了までに彼らはその報酬、みかえりを要求したのでした。

 ユダヤ人は自ら武装し兵器を作りはじめました。キブツ、モシャブといわれる農業共同体の名で知られるところは彼らがパレスチナ入植のあと直ぐに作り始めました。ユダヤ人はまもなく軍事訓練プログラムを開始します。来るべきイスラエル国家宣言、設立に備えたのでした。


photo 紛争の始まり

 英国政府はパレスチナ人、ユダヤ人のとろとろ煮える紛争を解決する事ができませんでした。そして、この問題を国際連合にゆだねるのでした。1947年パレスチナ分割案が決議されますが、パレスチナ人がその採択を拒否するのでした。

 国連案のあと英国は1948年5月15日、パレスチナから撤退します。この日を用意周到に準備していたシオニストのユダヤ人との間に戦争が勃発するのです。ユダヤ人の言う独立戦争、パレスチナ人の言うナクバ、破局なのです。

 結果としてシオニストはイスラエル国家を建設します。粗末な武器しかもたない未熟なアラブ軍を破ったのでした。結果として70万人のパレスチナ難民が自分たちの家、村、町から追い払われたのでした。ガザ地区はエジプトの保護領となり、西岸はヨルダンに統一される事を選択したのでオた。

 1967年の6日戦争により、シナイ半島、ゴラン高原、ヨルダン川西岸、ガザ地区がイスラエルの占領下に置かれました。イスラエル軍は開戦24時間以内でアラブの空軍を地上で麻痺させたのでした。結果エジプト、シリア、ヨルダン軍は敗北となりました。

 1973年10月の戦争は体制を変えました。スエズ運河西岸のイスラエル防御施設を勝ち取ったエジプト軍による勝利は1967年の戦争後メデイアを支配したイスラエル軍の不敗、優越神話を変えたのでした。


平和プロセスの始まり

 1977年、エジプト大統領アンワル、サダトはエルサレムへの歴史的訪問を果たします。その事がエジプト、イスラエルの平和交渉へとつながり、2年後の、初めてのアラブ、イスラエル平和条約調印へとつながるのです。1979年のキャンプデービッド合意として知られています。

 継続するイスラエルの占領に反対して1987年、最初のパレスチナインティファーダが勃発します。1990年の湾岸戦争により、翌年の1991年のマドリード平和会議開催につながっていきます。

 アラブ、イスラエル紛争解決への平和イニシャティブは「平和と土地の交換」を基盤に始ります。イスラエルが1967年に占領したすべての土地から撤退する。そしてアラブはイスラエル国家を承認し外交関係を正常化すると言うことです。

 交渉がワシントンDCで行われている間、イスラエル人、パレスチナ人の間でもう1つの極秘交渉が進んでいました。ノルウェイの首都オスロで、その交渉チャンネルを通して話し合いが続けられていたのでした。1993年オスロ原則宣言とよばれるものです。

 世界中がテレビに注目しました。イスラエル首相イツハック・ラビンがやや躊躇しながらPLOの指導者ヤセル・アラファトと握手を交わしたのでした。中央にビル、クリントン大統領が立っていました。ホワイトハウスの芝生の上です。翌年1994年ヨルダンがwadi Arabaでエジプトに続きイスラエルと平和条約に調印しました。

 シリア、イスラエル交渉は頓挫しました。シリアがゴラン高原からのイスラエル軍の全面撤退を強く主張したからでした。イスラエルは戦略的安全保障を理由に全面撤退には応じなかったからでした。

 1995年イスラエル、パレスチナオスロ合意は粉砕し始めました、パレスチナ人はイスラエルは最終的に占領地から撤退しパレスチナ人は自分たちの国家を宣言できる事を希望していました。イスラエルは占領地撤退の期日を決定することをせず、交渉を長引かせたのでした。

 オスロ合意に反対する両サイドの過激派が平和プロセスを砕こうとしたのでした。

 パレスチナのハマスが自爆テロをイスラエルに送り込み、イスラエルの右派がラビン首相を暗殺しました。1995年でした。宣戦布告のない両サイドの戦争は暴力とテロの連鎖となったのでした。

 2000年夏のキャンプデービッド会談の失敗により第2次インティファーダが勃発しました。パレスチナ人は交渉での紛争解決への最後の望みを失ったのでした。

 我々はこれからどこへ行こうとするのか? 今何がなされるべきなのか?

 個人的に私はここ15年間いわゆる第2トラック外交に関与してきました。両サイドが平和へのよりよい環境を準備するための共通点を見いだすことを助けているのです。学者同士が議論し合意に達するまで努力するのです。役人の形式的議論では出来ない事です。

 現代まですべての平和イニシャティブが失敗に終わっている。なぜでしょうか?

 個人的見解ですが、それぞれの政府は相手の犠牲によって自分の有利な地位を得ようとしているのです。双方とも平和の達成を考えていないのです。お互いに猜疑心をもちお互いを信用していないのです。

 信頼と責任を構築する真剣な方策がとられていません。平和プロセスが先駆けとなる経済的繁栄への願望は現実のものとなっていません。

 オスロ平和条約は2つの柱を基盤にしています。

 1,人々と物資の自由な動き

 2,信頼構築の方策

 どちらもパレスチナ人には現実のものとなっていません。時代がすすむうちに彼らの行動はより制限され、土地は没収され、イスラエルの入植地はより拡大され、壁、さく、障害物は建設され、結果として両サイドの憎しみが続くのです。一般市民への流血惨事、爆撃、閉鎖、家屋の破壊、イスラエル刑務所へのより多くの拘留者が出ています。

 パレスチナ人は希望を失い自分たちは袋小路に入ってしまったと考えはじめました。2006年立法評議会にイスラム抵抗運動のハマスを選択することによって報復したのでした。

 選挙でファタファが敗れハマスが勝利した背景にはさまざまな理由が潜んでいました。その理由の1つは、ファタファが人々の支援をいつも得られるものと誤解していた事。汚職や身内びいきのなれ合い主義がまん延していたのでした。

 問題となるのは2006年1月のパレスチナ立法評議会選挙のハマスの勝利の後、自由で民主的選挙におけるハマスの勝利をどのように解釈するかです。

 パレスチナ人が宗教的原理主義に向かっているのでしょうか? パレスチナ人が世俗主義や宗教的穏健に背を向けて宗教的急進派に向かおうとしているのでしょうか?それともパレスチナ人は自分たちのアイデンティテイを民族、国家ではなく宗教に求めているのでしょうか?

 確かにハマスは民主的プロセスをへて政権をとりました。しかし人々の繁栄、幸福に対する責任を負う事への義務は全うしていません。

 国際社会はハマスを孤立させ基金の流れを禁止しました。ハマスがその圧力に屈し国際社会の要求を受入れる事を期待したのです。ハマスは安全確保、医療サービス、仕事を作り出す事、そして公務員が食料を買うための給与の支払いさえできないのです。

 国際社会はこのような圧力によってハマスは国際社会が望む方向に進む事を願っているのです。すなわちイスラエルの存在を認め、暴力を放棄し、ファタファ主導政府がこれまで調印した合意を認めることです。


もう1つの選択を提案

 現在のジレンマからの脱却を考え「イスラムワサティア党」を立ち上げ特に若いイスラム教徒にたいして新しい選択をアピールしたいと思います。「ワサティア」とはコーランから引用された表現で「正義と道の中央」という意味です。

 宗教的過激派の人たちに対してもう1つの選択を提供したいのです。ワサティアのユニークな特徴はコーランから引用された概念で世界中のイスラム過激派への1つの選択肢となりうるはずです。ワサティアとは自己の内面と宗教という外面から現れるものとの調和によるものなのです。

 今のところワサテイアは前向きな反応を受けています。しかし現在の党がどのように反応するかを判断はまだ早すぎるかもしれません。

 西側世界はイスラム世界とうまくコミュニケーションを取る事ができません。西側世界がイスラムの言葉や考えではなく、西洋の価値観や思想をもちいているからです。西側が自分たちの既成の考えを非西側世界に押し付けるのではなく、その地域に根ざした思考を採用し受入れなければならないのです。

 たとえば、民主主義はイスラム世界でも受入れられるのです。イスラムの概念であるシュラという文脈のなかで示されるなら。シュラとは意思決定における相談、協議を意味するのです。アラブ世界における穏健という概念は否定的な意味合いを持つのです。降伏するという意味となります。そこで、ワサティアつまり「道の中央」が示されるのです。

 言うまでもなく、それぞれの文化にはそれぞれのシステムと文化的特徴をもっています。私達は私達自身の文化、価値観をもっています。それは伝統として根づいているものなのです。西側世界もその伝統に敬意を払い、受入れ、共存しなければならないのです。

 結論として、もしパレスチナ、イスラエルどちらにも善意というものが存在するならば平和を達成する方法は存在するはずです。どちらの側も平和のための犠牲と痛みを払わなければなりません。

 パレスチナ人は歴史的パレスチナという大きな夢はあきらめなければなりません。1967年以前の国境を受け入れなければなりません。イスラエルも大イスラエル主義を捨て1948年の国境線を受け入れなければならないのです。

 私達は将来の世代、私達の子供たちに責任があります。将来の世代に対してより良い未来を、より良い生活を示さなければなりません。今も続く紛争、暴力そして破壊にかわり、調和と仕合わせに満ちた生活が将来の子供たちには必要なのです。自分たち自身との調和、他人との調和、友人、隣人達との調和が必要なのです。


 最後に、私達が今日かかえるすべての問題にもかかわらず、私達は皆平和が必要な事は理解しています。しかし問題はどのような平和が必要でしょうか?

 私は強く訴えたいのです。私達は高潔なる平和が必要であること。何世代にも続く平和が必要である事。包括的かつ公平なる平和が必要である事。私達すべての者がうけいれられる平和が必要です。現在の私達、将来の世代共に受け入れられる平和が必要なのです。

 双方が満足できる状況でなければなりません。一方的であってはいけません。和解と共存を求める善意の心でのみ平和は達成されるのです。お互いを同等の人間として受け入れ、平和と調和の中で共に生きていく事をのぞみながら。

 ご静聴ありがとうございました。


ムンサル・ダジャーニ教授
(日本語訳 矢野裕巳)


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