人類愛善会全国協議会会長会議 講演
『キリスト教徒からみた平和』

去る11月7日(月)、人類愛善会全国協議会会長会議(大本全国本苑・分苑・主会長会議)で、ニューヨークにある聖ヨハネ大聖堂の
ジェームス・コワルスキー大聖堂長が講演。
以下、その講演文。
『キリスト教徒からみた平和』
『日本へお招きいただきありがとうございました。私にとりましてはじめての日本でございます。私はいわゆるベビーブームの生まれで、私の両親は第2次世界大戦直後に結婚しています。私の母の最初の夫はノルマンディー作戦で戦死しました。私の父は
ヨーロッパの戦場で、いつ戦死しても不思議でない経験をしております。
20世紀の初めに私の祖父達は米国へやってきました。大きな移民の波がありました。もしその時に米国にやってこなかったなら私の母方の祖父達は皆殺されていたでしょう。
母方の祖父達はロシア、ポーランド系ユダヤ人でした。私達は自分の国を愛していますが、
それはある種の偶然によってその国に生まれさせられています。他人が苦しんでいる
のを見る時、特に不公平に苦しんでいるのを見る時、私達もその立場に置かれているかも知れません。たまたま自分も別の所で生まれていたらと考えます。恐らくこの事
を認識していれば、世界の危機や自然災害、人災などに対する私達の反応も変わるでしょう。
よりよい世界を構築しようとする事も横柄さ、暴力、そして憎しみで世界を
破滅させるのも我々の考え方しだいなのであります。
60年前の、日米の戦いや広島、長崎での尊い犠牲を考えますときに、皆様と今ここで時間を共有出来ます事を心から名誉に感じています。皆様は戦争の苦しみを知っておられます。私は皆様の国を訪問し、じかに皆様の謙虚さ、やさしさ、寛大さに触れる事ができ、大変感動致しております。
大本と聖堂の友情は30年に及びます。ジェ
ムス・パークス・モートン師が25年間ディーンとして築かれた大本と聖堂との友情
の礎は確実に続いています。その礎のもと皆様と平和について共に考える事が出来ます事に特別な喜びを感じております。私は本日、キリスト教徒としてお話させて頂きます。
私は大本の人々の姿勢に敬意を表します。私達はこの姿勢をもっと学ばなければなりません。大本は多様性と同時に独自性を尊重されています。その事を神様は喜
ばれると考えられているのでしょう。そこで、私は明瞭なキリスト教徒として皆様と
平和について考えたいと思います。
イエスはキリスト教の中心的存在です。そして愛と平和の象徴です。イエスは自分達
を軽蔑するものを愛さなければならないと説いています。また片方のほほをなぐられ
たらもう一方のほほを出しなさいと説いています。キリスト教徒でない人達からは、
次のような質問がかえってくるかもしれません。戦争の概念はキリストの教えの中でどのように説明されるのでしょうかと。
中世の十字軍の遠征をどのように正当化す
るのでしょうか?あるいはかつてのキリストの神の名の下に戦われた多くの戦争をど
のように考えたらよいのでしょうか?
どうして、キリスト教徒は歴史上の戦争を不可避なもの、避けられないものとすぐに
考えるのでしょうか?神への服従に動機つけられた戦いが旧約聖書に多く見られます。
また神の慈悲、正義が敵への勝利を通じて表される例も多くみられます。
時代が過ぎ行く中で、聖書のなかのユダヤ、キリストの考えが広まってきました。その1つが聖
戦あるいは十字軍です。聖書のなかで神は何度も新しい土地をとりあげ神が約束した
人々に与えています。歴史上大規模な軍備が様々な信仰をもつ人々に使われてきまし
た。キリスト教徒も神の意志として武力を使ったのです。
聖戦は結果が高潔なものならば、その目的を達成するためには絶対的な力は正当化さ
れると信者に信じさせたのです。中世ヨーロッパの十字軍は彼等が信じる聖なる目的の為に行動しました。武力で戦争に訴える事はその擁護者にも神聖化されました。米国ではアメリカ独立戦争、南北戦争に、様々な神学的議論があります。南北戦争中家
族、隣人は戦う事を余儀無くされました。そしてリーンカーン大統領を初め多くの人
は流血は国を浄化するための神への犠牲だと信じていたのです。
ユダヤ、キリストの
世界では全能の神は悪や敵に対して戦いを挑み、その信者は戦いに参加しなければならないのです。
キリスト教では悪に対する戦い、神の愛を奪う力に対する戦いを一歩進んで考えています。キリスト教徒はナザレのイエスを信じています。それは神が完全に人間になった姿です。イエスは我々と同じように生活し、死んでいきました。神がいかに人を愛しておられるかが解ります。イエスを通して神は、人間として、苦しみ、死にます。
もちろん裏切りや見捨てられる事も経験します。イエスは人々が期待していたメシア
のイメージとは違っていました。ある宗教ではイスラエル王国を復興させる政治的、
軍事的指導者がメシアとして強く望まれています。
それどころかイエスは政府や宗教指導者の前に引きずり出され、沈黙します。自分の
力を発揮する事を自ら拒否します。イエスは自虐的でも、自滅的でもありません。自
分のもろさと屈服のなかで、神の力と神への忠誠を表すしもべとなってその使命をまっとうしたのでした。キリスト教徒は力は弱さのなかに存在する、そして年老いた者も、
亡くなった者も新しい命を得る事ができると信じています。死さえも私達から神の愛
を引き離す事はできません。イエスの復活は暗がりは決して光を制圧出来ないという
事を意味しています。悪は神の愛に勝つ事はできません。
イエスは弟子達に自分を助ける為に戦うことを禁じた平和主義者でしたが、平和主義
だけがキリスト教の中心的教えではありません。平和構築と平和主義は明らかにキリ
スト教の根本です。
イエスは、もし誰かがあなたの右ほほをなぐれば、もう一方のほほを出しなさい。また、なんじの敵を愛しなさい、そしてあなたを迫害する人の為に祈りなさい。さらに剣を取るものは剣で滅びると警告されています。
初期のキリスト教徒の多くは平和主義者で、ローマ軍に仕える事を拒否していました。今日メノ派教
徒、アマン派、クエーカー教徒、兄弟教会、等は平和主義の信念を貫いています。しかし、キリスト教徒の多くは平和主義者ではありません。
もちろん自分の信念にそって生きて行く事の難しさは人間のジレンマとして新しいも
のではありません。戦争に参加するかどうかはそのもっとも顕著なジレンマです。多
くのキリスト教徒は戦争は恐ろしいもので、神は望まれていないと考えます。
しかし
弾圧、飢餓、そして不正義等に直面すれば戦争もまた必要かも知れないと考えるのです。
キリスト教徒は正義のために働きますが、不正義にたいしても戦わなければならなりません。それゆえ何世紀にもわたって正義の戦争神学が論議され、ローマ帝国が
侵略の危機にあった5世紀に聖アウグスティヌスによって展開されました。また後に
キルスト教徒の哲学者達が聖戦神学を支持しました。そして、その戦いが聖戦である
ための基準が示されました。
1、武力は最後の手段としてのみ使われる
2、戦争は正当な権限によって宣言される
3、攻撃に対する防衛あるいは社会に対する明らかな危機への防衛のような正当な理由がある事
4、武力はその危機に応じて使用されなければならない
5、戦争は民間人や非戦闘員にむけられてはいけない
6、武力行使のあともとの形に戻す事ができる見通しがなければならない。
7、武力行使は悲しみの気持ちを持って行われるべきであり、報復の気持ちがあってはならない
聖戦であるためには、このすべてが満たされなければなりません。聖戦理論の支持者
は戦争を制限する事を望んでいます。
しかしどんな戦争神学も戦争の制限も必然的な
破壊や戦いで、その死亡を最小限にする事は出来ません。戦争を聖戦とする条件が整っ
たとしても、その戦争の結果は正義に反します。戦争は神の創造されたものを破壊します。戦争は調和を乱し、神の意志である豊かな生活を破壊します。いかに死者を少
なくしようとしても死者は出ます。
この事は一つの神の子として、世界市民の一員として罪深い失態なのです。
皆様もお聞きになった事がある、イエスの有名な説教があります。「隣人を愛し敵を
憎みなさい。」これは、多くの文化に共通する認識です。イエスはさらに続けます。
「しかし、私はあなたに言います。あなたの敵を愛しなさい、そしてあなたを迫害する者のために祈りなさい。」はじめてイエスの口からこの言葉を聞いた人はイエスは
頭がおかしくなったと思ったでしょう。この教えは一般的な認識とは大きく違っています。
あなたの敵を愛するとはどのような意味でしょうか?自分を傷つけ、迫害する
人に情けをかけるとはどのような倫理的基準からなのでしょうか?
調停者や平和主義
者は神のようでならなければならないとイエスは説いていると思います。
この事はキリスト教徒にとって大きなジレンマです。別のほほを差し出す事は多くの
キリスト教徒には理解出来ません。私は米国の教会で、信じる事のため立ち上がりなさいと教えられました。弱者、のけ者、社会の底辺の人々を守る為に立ち上がれ、と教えられました。キリスト教徒として正義のため、また貧しい人々、のけ者にされた人々の仲介者でなければならないのです。
また違う価値観をもつ人にも敬意と優しさで接しなければなりません。もう一方のほほを差し出すのは従順で受け身になることで、他人がつけ込んでくることでしょうか?
そうではありません。もし暴力の連鎖を打ち切る事ができなければ、暴力はさらなる暴力を生みます。キリスト教では自分の命をふくめ、命を守る事は重要です。
しかし真の安全は神の力を信じ人間社会で価値や目的を共有できる時にのみ可能であり、武力での力では真の安全を得る事ができな
いと教えられています。
2001年9月11日15時頃、矢野裕巳撮影
2001年9月11日、私の国は卑屈な犯罪者によっておぞましい攻撃をうけました。
このような犯罪を防ぐ為、他の国々と協調して次第に戦争行為に移るにつれて米国への同情、支持が変化していきました。
国の安全保障を願うあまり、米国は暴力、破壊、
死から身を守る為の国家間の連帯を無視し始めました。今日数人のテロリストが集ま
れば、限られた資金で多くのテロを引き起こす事ができるのです。
ある分析によると
9.11のテロは20万ドルの資金で何十億ドルの損失と3000人の犠牲者をだしたとされています。わずか数人による、不特定多数を対象としたこの種の破壊を防ぐ
為共に協力しなければなりません。
暴力と戦争に世界が苦しめられるのは今回が初めてではありません。
イエスは言います。「祝福されるのは平和を築こうとする人々です。彼等を神の子と呼びましょう。」
イエスはローマ帝国の強大な力に囲まれていました。イエスは自分の村やイスラエル
の無実な人々から残虐や破壊行為を受けました。彼は「自分の敵を愛しなさい、自分
を苦しめる者の為に祈りなさい。」と言いました。この事は彼の時代には容易な事ではありませんでした。もっとも今日の世界ではさらに困難なことでしょう。
現在の米国では多くのキリスト教徒は沈黙しています。自分達の声が宗教を政治的に利用しよ
うとしている一部の宗教指導者によってしめだされているのです。テロに対する戦い
やサダムフセインが9.11に関与したという過った判断に対して意見する事が愛国
心に反するとか、キリスト教の教えにそむくと考える人もいます。普段は思慮深いはずの信仰をもつ人達が先制攻撃を正当な外交政策として考えているのです。
私はしば
し次のような表現を耳にします。「私達は何かをしなければならない。」
私達が何かをしなければならないから戦争をするというにはならないでしょう。聖戦
の基準に達していないにもかかわらず、米国は英国やその他の国々と大量破壊兵器をもつ指導者から世界を守ると言う大義名分をかかげ、イラクを攻撃します。
サダムフセインは核の脅威をも引き起こすという理由で人々に脅威を与えました。冷静で憐れみ深いはずの宗教者は、ジュネーブ条約を無視したイラクの指導者やテロリストの投獄、拷問に目をつむっていました。国家の安全という名のもと我々は何でもできると考えているのです。
今の米国政府は学びました。人々に恐怖をあたえることでたとえ正当に選挙で選ばれたとしても、恐怖や憎しみから政治を行う事は出来ない事を。
知性や抑制が必要なのです。実際戦争へ駆り立てた議論は間違いであったと指摘する人達も米国にはたくさんいます。
大本は本当の愛にみちた一つの神の存在を信じておられます。大本は軍備的ファシズムに二度弾圧されました。しかし現在では平和主義を実行され戦争に抗議し、宇宙を
作られた神様を毎日、朝夕お祈りされています。私は大本が出されたイラク戦争反対声明に敬意を表します。大本は二度目の国連安全保障理事会の決議なしにイラク攻撃に踏み切った事に遺憾の意を表されています。あの攻撃は実際国連の威信を傷つけました。大本は世界平和の祝詞で日々、戦争回避を、また戦争の即時終結を祈りつづけておられています。そして世界に対して戦争は多くの尊い、かけがいのない命を失うと警告しています。
偉大な知恵と信仰者の目を通して『人類はすべての生きとし生けるもの尊厳を守る努力をしなければならない。この戦争を終らせ、違いをなくす手段として戦争を使うべきではない。」と、また次のようにも述べられています。『私達はまた法と正義を基盤とし、戦争や暴力のない公平な国際社会を構築するよう活動しなければならない。』
大本はイラクについて関与され、率直に米国の政策に異議をとなえています。平和運動を進め、戦争に抗議し、神に祈る、という大本の姿勢に敬意を表します。
また宇宙を創造された神は無実の命をうばう戦争をけっして認めないと強く信じておられる姿に感謝を捧げます。
信仰の教えを実践することほど今日必要な事はないでしょう。多くの組織が軍国主義や国家主義に洗脳されているとき特にそうでしょう。洞察力のある予言的な声があります。戦争神学は米国政府の上層部から始まり、私達の教会にも広まりつつあります。
皆様は正義の帝国、神、教会の役割、そして国家があやつられている等を聞いた事があると思います。米国では米国の使命、聖なる約束、また世界から悪を取り除く等のことばで、人々は自分を見失っているのです。信仰のある人は神が特定の国のみに属していると考える事はできないはずです。
米国では国際協調にかげりが見られ、より一国単独主義になってきました。このまま
ではテロに対する戦争が、何世紀にもわたり培われてきた倫理的、法的義務よりも重
視されてしまいます。
ジュネーブ条約はここに来るまでに何世代もかかりました。いかなる国も指導者も自由きままにこの条約を適用出来ないのです。キリスト教徒として拷問、市民への故意の爆撃、そして大量兵器の無差別使用等はけっして許されないし、実際人類に対する犯罪です。そしていかなるキリスト教徒も一部の人間が法律適
用外であるという仮定はうけいれられません。敵を悪しき者とする事はできないし、
また囚人に対して過った扱いをすべきではありません。
奇妙な事に米国が市民の自由や人権に関して暗い陰を落とし始めているこの時期に、米国はキリスト教のみの国であると間違った主張をする人達もいます。彼等は、米国は美徳に溢れた国であり、米
国の敵は邪悪であると主張しています。
敵を愛する事はキリスト教の中心であります。それは、愛によって他人が自分に敵意を示したり自分を支配する事を許すことではないのです。私達は敵に対して敬意や愛を示さなければならないのです。キリストが私達や世界全体に愛を示されたように。
私達はいかなる人間も悪しき者とする事はできません。我々はみな神のイメージで創造されたのですから。
私は大本の方々の謙虚さに感動致しました。キリスト教徒とし
て、政治的不一致や認識の違いの中にも、謙虚さがあるならば、恐ろしい結果を回避できるのです。とりわけ、ハイテク兵器の存在する現代の社会ではそうでしょう。米国に反対するものは間違いであると決めつけ、米国の政治に問題提起するものを悪の行為者として扱う事は大きな間違いです。宗教者はプロパガンダのため自分達の教え
を曲解する事は戒めなけれはなりません。歴史的に国家が神を強奪するならば、その
ような国家は信仰を悪用し宗教を政策に使うのです。そうではなく、国家と指導者は
お互いに批判し公に議論しあって、その向上に貢献します。
信仰をもつ者は自分達の信仰を日常の生活に生かさなければなりません。自分達の原則、市民としての決定を用いて。
そして、平和を築き上げる事は神が心から喜ばれることであり、困難な世界
で信仰を持つ者のもっとも重要な使命です。
世界平和に向けて努力されている皆様の前でお話出来ます事を名誉に思います。我々がお互いに知り合う前に大本と聖堂は関係がありました。大本も聖堂も1892年
同じ年に生まれました。私達の絆は長きに渡り聖堂長を務められたジェームス、モー
トン師、またハリー、プリチェット師を通じて確立しました。合同礼拝、教育、芸術、
交流プログラム、を通じて友情を深めていきました。大本と聖堂はシナイ山で共に祈り、国連の行事で共に祈りました。私達が共に正義をもって和解と恒久平和に努力出来ます事を神様に感謝したいと思います。平和への夢を持ち続けましょう。私達の日常における生き方がお互いを尊敬し平和を築くもとになるのです。その事を神様はもっ
とも喜びになるでしょう。そして、私達が、大本と聖堂が今後も引き続き友情を深め
恒久平和とこの世にみろくの世を築くために共に努力する事を神様は最もお喜びになるはずです。
ニューヨーク 聖ヨハネ大聖堂長
ジェームス・A・コワルスキー』
(訳:矢野裕巳 国際部次長)
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