誰にでもわかる世界の紛争(その1)
常務理事・主任研究員 矢野裕巳
”ミャンマー(ビルマ)”
人はなぜ争うのか?
人類の歴史は戦争の歴史であるとも言われます。戦争が悪であると考える人は多いと思います。それでも、今なお世界には多くの紛争が存在し、多くの人達が苦しみ、命の危険にさらされています。世界各地で勃発する争いのいくつかを取り上げ、その背景を広くそして重点的に解りやすく学んでいきましょう。それぞれの紛争の背後にある共通の問題点を共に検証する事が最終的な目標です。
初回は ミャンマーについて取り上げます。
◆ミャンマー VS ビルマ
第2次世界大戦直後に出版された竹山道雄の「ビルマの竪琴」という本を読まれた人が多いのではないでしょうか?
これは、市川崑監督により、1956年と1985年に2度映画化されました。2度目の作品では僧となった水島上等兵役の中井貴一、井上隊長役の石坂浩二が話題になりました。
そのビルマがいつの頃からかミャンマーと国名が変更されていると感じているのではないでしょうか。
実際、最近のビルマの記述には、元ビルマで現在のミャンマーであるとの説明がついています。
1989年6月18日、ビルマ軍事政権は国名をビルマからミャンマーに変更しました。
ただし、これは英語呼称を現地語にしたのであって、Japan をNippon にしたようなものです。もともとビルマという言葉も英語のBurmaではなくオランダ語から江戸時代に 入ってきたものと考えられています。ポルトガル語説もあり)
◆親軍事政権 VS 反軍事政権 ?
他民族国家ビルマには135の少数民族が存在します。しかしその70パーセントがビルマ民族です。「ビルマ」という呼び方は少数民族を含めた呼び名ではないというのが、変更の1つの理由とされています。これに対しても「ミャンマー」がすべての民族を含む意味にはならないとの意見もビルマ専門家から出ています。
つまり、言葉の意味というより、武力で政権を奪取した政権が国民の意向を聞かずに 国名を変更した事が許せないという民主化勢力の考えが存在するからです。現在のビルマ軍事政権を認めていない人は「ビルマ」と呼び、便宜上であっても軍事政権を認める人は「ミャンマー」と呼ぶとの理屈が成り立ちます。
日本は1989年2月17日、今の軍事政権をいち早く認め、多額の援助をしています。
しかし現実にはほとんどの人は、 そんな事など考えずに「ミャンマー」と呼んでいるのです。
◆英国からの独立


東南アジアの西端に位置するミャンマーの面積は日本のおよそ1.8倍。人口は 約6,000万人。英国との3度の戦争に破れ、1886年から英国の植民地時代が始まります。
その後ビルマ人による対英独立運動が起こり、第2次世界大戦が始まると、アウンサン将軍はビルマ独立義勇軍を率いて日本軍と共に戦い英国を駆逐。日本の南方進出 の思惑と合致し、日本の後押しでビルマ独立を勝ち取ります。
その後、将軍はインパール作戦の惨敗等日本軍敗色濃厚となる大戦末期には英国側に寝返ります。しかし、イギリスは独立を認めず、英国領となります。第2次世界大戦後、1948年、ビルマ連邦として独立。
しかし、その前年建国の父であるアウン・サン将軍は暗殺されています。独立直後か ら国内には、少数民族の問題を抱え、不安定な状態が続きます。英国の植民地政策 である民族分断統治が核心的要因なのです。民族対立により植民地支配を強めるという思惑です。1962年その混乱の中で、ネ・ウイン将軍が軍事クーデターを起こします。
ビルマ社会主義計画党の最高指導者として1988年まで軍事独裁政権を維持します。 ネ・ウイン将軍もアウン・サン将軍と共にかつて英国からの独立を夢見て、日本で猛烈な軍事訓練を受けていました。
◆アウン・サン将軍の娘
1988年、ビルマに国民的民主化運動が起こり、ネ・ウイン独裁体制が崩壊しました。 ソウ・マウン将軍が国家法秩序回復評議会を設置。新たな軍事政権は総選挙を公約。民政移管までの暫定政権としてスタートする。民主化を求める国民民主連盟も故アウン・サン将軍の娘であるアウンサン・スーチー女史を書記長としてその活動を活発化させていきます。
私は以前京都大学留学中のアウンサン・スーチーさんと亀岡で食事をした事があります。 1986年4月でした。スーチー女史からというより、英国人のご主人故マイケル・アリス氏から ブータンについての話を聞いた記憶があります。
当時大本国際部で共に仕事をしていた、 アレックス・カー氏はオックスフォード大学在学中、アリス教授からチベット学を学んでいました。
その時のスーチーさんは、会話にはほとんど参加せず、次男のキム君の世話をしながら、我々の会話を微笑んで聞いていました。本当に奇麗な人だなあとしか私には記憶がなく、その後のビルマ民主化推進に命をかける壮絶な人生は想像できませんでした。
◆自宅軟禁
スーチー女史は1989年、翌年の総選挙を前にして全国遊説を行うが、7月に自宅軟禁されます。1990年の総選挙ではアウンサン・スーチー率いる国民民主連盟は大勝しますが、軍政側は権力の委譲を拒否。20年経った今も委譲は行われていません。
激しい国際非難の中1991年スーチー女史はノーベル平和賞を受賞。1995年に自宅軟禁 を解かれますが、2000年に再度拘束。2002年解除となるも、翌年3度目の軟禁状態に置かれ現在に至っています。軍事政権の独裁が続いているのです。
2007年9月、ミャンマー軍事政権に対する僧侶、市民の反政府デモ取材中、軍兵士に銃撃され死亡したジャーナリスト長井健司さんの事を記憶している人も多いでしょう。
本年2010年11月にスー チー女史解放との軍事政権の発表はありますが、現実にどうなるかは不透明です。私は24年前にお会いした笑顔のスーチーさんを思い出しながら、1日も早く軟禁状態から解放され、愛する祖国の復興に貢献される事を心よりお祈りしたいと思います。
