誰にでも分かる世界の紛争(その17)
常務理事・主任研究員 矢野裕巳
”グルジア”
人はなぜ争うのか?
人類の歴史は戦争の歴史であるとも言われます。戦争が悪であると考える人は多いと思います。それでも、今なお世界には多くの紛争が存在し、多くの人達が苦しみ、命の危険にさらされています。世界各地で勃発する争いのいくつかを取り上げ、その背景を広くそして重点的に解りやすく学んでいきましょう。それぞれの紛争の背後にある共通の問題点を共に検証する事が最終的な目標です。
今回は グルジアについて取り上げます。
◆クレオパトラの涙


多くの民族が行き交うシルクロードの要所。多くの異なる言語が話され、様々な文化の交差点コーカサス地方に位置する国グルジア。
「クレオパトラ」の涙と呼ばれるグルジアワイン 黒海とカスピ海にはさまれたコーカサス山脈一帯は「ぶどう発祥の地」と言われています。グルジアは、8,000年の歴史を誇る、世界最古のワイン生産地の1つなのです。
強権を誇った歴史上の人物、あのクレオパトラは芳醇なグルジアワインをこよなく愛し、一人孤独を紛らわして涙を流したとの伝承が残っています。そこからグルジアワインを「クレオパトラの涙」と呼ばれるようになりました。
グルジアワインを愛したチャーチル首相 英国のチャーチル首相もグルジアワインに魅せられ、「このグルジアワインを私は生涯に渡り買い占めたい」と語ったと伝えられています。
かつてのソビエト連邦最高指導者ヨシフ・スターリンもグルジア人としてこの母国グルジアワインを愛飲していたことはよく知られています。
◆缶コーヒー 「ジョージア」?
グルジアの面積は7万平方キロメートル(日本のおよそ5分の1)人口は約420万人。公用語はグルジア語。
グルジアはロシア語の発音に基づいています。2009年、グルジア政府は日本語における国名表記をロシア語表記から英語の発音のジョージアに変更するよう日本政府に要請しました。
日本政府は米国のジョージア州と混同する理由等でまだ正式には変更を認めていません。まさか缶コーヒー 「ジョージア」と同じ名前になる事への心配ではないと思いますが?
◆ソ連邦からの独立まで
グルジア人は紀元前から現在のコーカサス地方に暮らしてきました。しかし多様な民族が複雑にからみあい常に他民族からの侵略を受けた歴史をもっています。337年、世界で2番目にキリスト教を国教化して以来現在でも国民の70パーセントはキリスト教(グルジア正教)を信じています。
ちなみに301年、世界で初めてキリスト教を国教化した国はアルメニアです。キリスト教のあと、イスラム教も広がり、今ではイスラム教徒が多数暮らしています。19世紀後半グルジアはロシア帝国に武力併合されます。日本での国名がロシア語表記を嫌う理由もこの歴史的事実からきていると思われます。
ロシア革命後の1918年5月26日、グルジア民主主義共和国として独立宣言します。しかしその後まもなく、1922年ソビエト連邦構成国に取り込まれます。およそ70年後、1991年12月、ソビエト連邦の解体によりグルジアは独立を果たす事になりました。
◆グルジア紛争=アブハジア紛争+南オセチア紛争
長年のソビエトやロシア支配から独立したグルジアですが、そのグルジアからの独立を求める2地域が存在します。南オセチア自治州とアブハジア自治共和国です。共にロシアの支援を受けてグルジアからの分離独立を望んでいます。なぜでしょうか?
ソビエト連邦からのグルジア独立を目指したグルジア民族主義の喚起は、グルジア内に残る火種、グルジアに住む少数民族主義にも火をつける結果となったのです。
当然ですが、グルジアに住む大半の人達、およそ85パーセントはグルジア人です。しかし、南オセチアには多くのオセット人(オセチア人)、アブハジアには多くのアブハズ人が暮らしています。 グルジア内の少数民族が住む地域としてソ連時代から一定の自治権が与えれていました。
「1991年のグルジア独立後、グルジアからの分離、独立を望む南オセチア、アブハジアそしてそれを支援するロシアの思惑VSそれを阻止するグルジアとそれを支援する欧米、特に米国の思惑」
これが、グルジア紛争の背景なのです。
◆アブハジア紛争
アブハジアには、アブハズ語を話すアブハズ人、アブハズ民族が存在します。面積は86,000平方キロメートルで面積はほぼ兵庫県と同じです。グルジア人の大半がキリスト教徒(グルジア正教徒)に対して、アブハジアに住むアブハズ人はイスラム教徒です。16世紀から17世紀にかけて、アブハジアはオスマン帝国の支配を受け、その時アブハズ人はキリスト教からイスラム教に改宗しました。
ソ連崩壊前は「黒海の真珠」と呼ばれ黒海沿岸のリゾート地で、50万人以上の人達が暮らしていましたが、今では、およそ21万5千に激減してしまいました。内戦の影響で住民の多くが難民となったからです。
アブハズ人にとってグルジア民族主義者による文化的、政治的、「グルジア化」に対する危惧がソビエト時代から存在します。この危惧はソ連崩壊とグルジア独立宣言によって「グルジア同化主義」へのアブハズ人の反発として行動に現れます。グルジア独立の翌年1992年7月アブハジアは独立宣言を行いますが、これに対してグルジアが兵を派遣、独立をめざすアブハジア武装グループとの戦闘が始まります。戦闘開始直後はグルジア軍が優勢でしたが、イスラム教徒の義勇軍支援や強力なロシア軍の協力でアブハジアはグルジアに勝利しました。1994年停戦合意が成立。以来アブハジアにはロシア軍が平和維持軍として駐留し、一部の地域を除いて、グルジア政府の関与はありません。
この時アブハジアに住んでいた多くのグルジア人が民族浄化の対象となり、多くの難民を生む事になったのです。この難民、避難民の問題は未だ解決されていません。
◆南オセチア- 分断された同胞の国
オセチアに住む人達はオセット人と呼ばれています。彼らはイラン系の人種で、オセット語を話します。
ロシア革命後、1922年、北オセチアはソビエト連邦を構成する15の共和国の一つ、ロシアに、南オセチアはグルジアに組み込まれました。同じ民族が南北に2分されたのでした。
南オセチアの面積は3,900平方キロメートルで面積は埼玉県とほぼ同じです。
1991年のソビエト崩壊後も、北オセチアはロシア(ロシア連邦内の共和国)に所属しています。
一方の南オセチアでは、前述のアブハジアにおける事例と同様、グルジアにおける民族主義高揚をオセット人としての民族存亡の危機と捉え始めました。両者の緊張が高まってきます。1991年、ソ連から独立したグルジアは、独立以前に制定されたグルジア言語法により南オセチアでの公用語もグルジア語に限定しようとしました。またグルジア独立前年には南オセチアはグルジアからロシアへの帰属転換を一方的に宣言。分断されていた同じ北と南の民族地域を統合した上でロシアへの帰属を求めたのでした。
これをグルジアは承認しないだけではなく、南オセチアがソビエト時代にもっていた自治権も廃止してしまいます。
まもなく、両者の武力衝突が頻発し、グルジア独立の翌年1992年、南オセチアは独立を宣言、ロシアの武力援助を受けグルジアに勝利。6月には停戦が実現し、ロシア軍と南オセチア軍で構成された平和維持軍の駐留が決定します。
南オセチアの人口はソ連時代には、10万人を超えていましたが、紛争による難民の流出により現在ではおよそ7万人になりました。ロシアは南オセチア住民の多くにロシア国籍を与えています。ロシア軍の介入がロシア国民を守るとの理由付けとなっています。グルジア政府の統治が及ばない中、南オセチアのロシア化は確実に進んでいるのが現実です。
◆バラ革命
1985年から1990年までソビエト連邦の外務大臣を務めたグルジア出身のエドゥアルド・シェワルナゼ氏がグルジア独立翌年の1992年、グルジア国家評議会議長となり、グルジア最高指導者となります。独立後の混乱を立て直すため、ソ連のミハエル・ゴルバチョフ大統領が唱えたペレストロイカ(ロシア語で立て直し、ソ連の社会主義改革)を推進し、世界で名の知れた人物の擁立でした。
シェワルナゼ氏は1995年からはグルジア大統領を務めます。シェワルナゼ政権は穏健でゆったりとした変革を進めました。旧共産党エリート中心の政権で、事なかれ主義と腐敗が蔓延します。国民の不満は徐々に膨らんでいきました。
そのような中で、2003年11月に行われた議会選挙が行われましたが、その結果が明らかに、非民主的でシェワルナゼ側に不正操作があった事が明らかになります。
野党側の政治家は自分たちの勝利を主張し、シェワルナゼ政権に対する抗議のデモを呼びかけました。
11月22日、不正選挙の結果開会された新議会が開催されますが、野党支持者は議会ビルを占拠し、シェワルナゼ開会演説を妨害します。そして、シェワルナゼは逃亡する事になりました。この時人々はそれぞれバラの花をもって集まり、シェワルナゼ逃亡の後、バラを置いて去って行きました。バラは無血革命としての非暴力の象徴でした。そのためこの政変劇は「バラ革命」と呼ばれています。
シェワルナゼはこの後、ドイツから亡命受け入れを打診されます。ドイツはシェワルナゼがソビエト外相時代に東西ドイツ統一に努力してくれた恩を忘れていなかったのでした。
それでも、シェワルナゼはグルジアに残る選択をくだしました。
◆ミハイル・サアカシュビリ大統領
バラ革命でシュワルナゼ大統領は退陣しました。 2004年1月の大統領選挙でミハイル・サアカシュビリが大得票を獲得して大統領に選ばれました。グルジアの新しいリーダーとして36歳でその責任を背負う事になります。
彼はバラ革命においても先頭にたち指導的役割を果たしました。グルジアの首都トビシリに1967年に生まれます。父は医師、母は歴史学者。米国のコロンビア大学で学び、ニューヨークの法律事務所で働いていました。
グルジアは1991年以来、ロシアから離れ、欧米との関係を構築する方針を打ち出してきましたが、サアカシュビリ政権になりこの動きに拍車がかかりました。
対ロシア強硬派が中心の米国ネオコンとの関係も深く、サアカシュビリ大統領は露骨にも思える反ロシア路線をとります。この事が数年後のロシアとの軍事衝突へとつながっていく要因になったと思えます。
グルジア国内の問題では、アブハジア、南オセチア以外にも、独立以来グルジアの主権が及ばなかった地域があります。トルコと接するアジャリア自治共和国です。人口はおよそ40万人です。
民族的にはグルジア人と同じですが、一般のグルジア人の信じるグルジア正教(キリスト教)ではなくイスラム教徒です。そのためか文化的独自性が強く、グルジアとは一線を画してきました。グルジア政府への納税義務も拒否。前シュワルナゼ政権が野放しにしていたこの地域にサアカシュビリ政権は2004年、グルジアの主権を回復します。
グルジア全土の自治回復と統一を選挙公約にして当選したサアカシュビリ大統領ですが、
南オセチアやアブハジアの自治回復は、アジャリアと同じようには行きませんでした。
◆ロシア・グルジア戦争(南オセチア紛争) 2008年
2008年8月7日深夜、グルジア軍が南オセチアの中心都市に対して軍事攻撃を開始します。南オセチアに駐留する平和維持軍と言う名のロシア軍に対して攻撃したのでした。
南オセチアでのグルジア主権回復に焦ったサーカシビリ大統領の一か八かの軍事行動でした。圧倒的軍事力を誇るロシア軍に反撃され、5日目にはグルジアは停戦を申し入れ、EU(欧州連合)の仲介により8月12日ロシアも停戦に合意します。国際社会、特に米国の軍事介入を期待してのグルジアの攻撃であったと思われますが、明らかに、サーカシビリ大統領の間違った判断でした。
欧米はロシアの行き過ぎた反撃やグルジア領土内への侵攻を非難しますが、現実に欧米各国がコーカサスの小国グルジアを守る為に軍事介入すると本当に考えていたとするなら、取り返しのつかないミスを犯しました。国際社会を見方にする為、国際社会の同情を引きつける為には少なくともグルジア側から南オセチアに侵攻する選択肢はなかったはずです。
ロシアは反撃という口実を見つけました。南オセチア、アブハジアへの軍事的支配を強化し、両地域を独立国として承認します。大統領のグルジア全土の統一という公約はますます遠ざかっていきました。
◆これからのグルジアは?
欧米との関係を強化し、ロシアとの軍事的対抗上サーカシュヴィリ大統領は、NATO加盟を目指しています。このグルジアのNATO加盟に対してロシアはNATOの拡張主義として大きな脅威を感じています。
ロシアのグルジアへの介入について、グルジアの地政学的な側面、戦略的に重要な拠点であること。またカスピ海の豊富な資源への関心などが力説されますが、それと同様に、あるいはそれ以上に旧ソビエト連邦の国々のしん欧米かへの懸念。
またこの地域への影響力の低下を大国ロシアとしてのプライドが許さないかもしれません。
グルジアの進む道は、欧米諸国との関係を強化すると同時にロシアとの対話のパイプを持ち続け、友好関係を構築し、国際社会の関心を得つつ、粘り強く交渉する以外に道はないでしょう。グルジア人の根強い歴史的反ロシア感情を考えても、それは大きな挑戦であると思いますが。
