イスラエル滞在記
◆6月28日
オリーブ山を背にして先程、ようやくテルアビブ空港に到着しました。
28日午前9時過ぎ(日本時間)に関空を出発してインチョンを経由、インチョンからはテルアビブ直行でしたが、ブラジルほどではありませんが、長旅でした。エルサレムの旧市街地のすぐそばの、あのカトリック僧院ホテルに、今(現地午前1時)入ったところです。
私は、霊界物語64巻(上)でブラバーサが投宿した二階の9号室に部屋をとることが出来ました。今は、夜中なので、部屋からの景色はよく見えませんが、右手にオリーブ山、左手にスコープス山がひろがっています。そしてすぐそばに旧エルサレム市内に入る八つのうちの一つの門、新門が位置しています。
明日はまず外務省でハイム・ホシェィン氏に面会することになっています。エルサレム市役所に綾部市長さんからの親書をお届けする段取りもお願いしています。
気候は日本よりも気温が少し低くて、過ごしやすいようです。
◆6月29日
今日はエルサレム二日目を迎えました。今回のエルサレム訪問の目的の一つは、エルサレムのグランドムフティ ムハンマッド・アハマッド・ハッサン師、イスラム法廷判事 シェイク・ユスフ・イデイス師をはじめ、昨年綾部市に於いて開催された中東プロジェクトに参加した子供たちとの再会を果たすこと、外務省アジア局長のハイムホシェン氏を訪問する事です。そしてもう一つは、旧約聖書の世界を通じてエルサレム、イスラエルへの理解を深める事でした。
今朝は早い時間からこれらの目的に沿って行動を起こしましたが、ハイムホシェン氏とはゆっくり昼食を共にし、旧交を温めるとともにイスラエルの民主化の嵐の吹き荒れる中東にあってパレスチナ問題の今後の見通し、東南アジア諸国とイスラエルの関係等について様子を聞き、意見を交換する事が出来ました。ハイムホシェン氏は、二年前までイスラエル大使館の公使として日本に駐在していましたが、大本とは特に懇意な関係が出来、歌祭には亀岡、京都、東京と三回参加していただきました。京都歌祭りには初めてパレスチナ日本代表部のワリード大使と一緒にイスラエル大使館代表として参加いただき、また東京歌祭ではエジプト、ヨルダン、パレスチナの大使とともに華を添えてもらったことも記憶に新しいところです。率直に意見を交換できる大本の友人です。今回もエルサレム市への訪問の段取りなどお世話になっています。
今回、旧約聖書を中心にエルサレム、ユダヤ教、ユダヤ民族を勉強するのに日本人ガイドの西郷さんにお世話になることにしました。西郷さんとは十年来の知人であります。現在43歳、高校生のときに両親と一緒にイスラエルに移住。ヘブライ語が堪能で19歳のとき難関のガイド試験に至上最年少で合格したという俊才です。イスラエルに帰化していますので日系ユダヤ人という事でしょうか。
彼の案内で数カ所の遺跡を見て回りました。旧市街地にはあちこちに発掘跡と保存された場所があります。2000年前の、あるいは3000年前の遺跡に当時のユダヤ人の信仰と習慣、戒律を守った独特の生活が偲ばれます。紀元70年にローマ帝国に滅ばされ、エルサレム神殿が焼失した当時の家屋なども発掘されており、2000年前の悲劇が生々しく各所で甦ります。
また、メア・シェアリームという正統派ユダヤ人だけが住んでいる地域にも行きました。新市街の北東にあり、道行く人々は、男性は長いもみあげに山高帽、そして黒いフロックコートと異様な出で立ちで、女性はというと華美な服装をしている人は1人も見あたらない独特の雰囲気です。特に安息日には一般の人々はほとんど足を踏み入れないという、ユダヤ教の戒律に忠実に生きる人々の博物館のような町でした。ユダヤ人は世界中で差別と迫害を受けてきましたが、中世の西洋キリスト教世界で「悪魔の宗教」と誤解され、排斥されたのも無理からぬところもあるような気がしました。
今夜はアルクドゥス(エルサレム)大学教授、サタウィ平和研究所所長のムンサル・ダジャー二先生の招待を受け一緒に夕食をいただきました。
教授には、もう四年ほど前になりますが、廣瀬静水総長が世界連邦日本宗教委員会の委員長をお務めの時、国学院大学で開催された平和促進全国宗教者大会の基調講演の講師をお願いし、訪日いただきました。160キロの巨漢であります。
現在、大学での講義も研究所の用務もこなしながら、アメリカ、ドイツ、台湾、ヨルダンの大学等で特別講師に招聘され大変多忙な毎日だとのことでした。また実兄の一緒にワサティア運動(イスラムの中道に帰る活動)を通じパレスチナ問題の解決に尽力しておられます。ワサティア運動への賛同者、理解者も次第に増え、先日ラマラで開催された会議には運動開始当初4~5人しか参加がなかった宗教関係者の数が100人を超えたと喜んでおられました。パレスチナ問題解決の道筋については、一方的にイスラエルに対し敵意と要求をつきつけるのではなく、和を大切にしながら、パレスチナ側もイスラムの原点に返り、寛容と譲歩の中で一致点を見出そうというものです。
宗教論議にも花が咲きました。イスラムの真の教えからすると、唯一の創造主のもと、ユダヤ教、キリスト教を始めすべての宗教の根源は同じであり、すべての人種、民族、文化、言語の違いは、創造主神の人類に対する愛であると強調しておられました。違いを乗り越えていく努力をする事が神の恩寵への感謝であり、その行動が平和への営みであり、それが人類の向上の道であると。
まさに万教同根、人類愛善の思想と大本の神業意識を互いに共有している事を再確認することができた意義深い一夜でした。
今日、旧市街の岩のドーム(黄金のドーム)の神殿の丘に入る事ができませんでした。その理由は、今日がモハメッドが大天使ガブリエルに伴われ、岩のドームから昇天し霊界をかいま見てきたというその日にあたり、その祝福の祈りがイスラムあげておこなわれているからということでした。明日はこの神殿の丘に参拝するつもりです。
◆6月30日
岩のドーム入り口にて朝一番に岩のドームの建つ神殿の丘へ向かいました。紀元70年にユダヤ教の第二神殿が破壊された、その跡に691年に建てられたイスラムの礼拝堂です。最初から黄金色をしたドームだと思っていましたが、案に相違して、1964年ヨルダン国王によって金メッキされたものでした。その東側には,アル・アクサ寺院(モスク)が建てられています。
金曜礼拝の際など参拝者の多いときは、岩のドームに女性が、そしてアル・アクサ寺院に男性が参拝するとの事、イスラムは男尊女卑と言われていますが、アル・アクサ寺院の方が聖地メッカに近いということでアル・アクサ寺院には男性が参拝するということです。旧市街のなかで、この広場がイスラムの領域であり、西側の残された外壁が「嘆きの壁」で、その広場がユダヤ教のスペースとなって共存しています。
成人式の祝福を受ける少年ユダヤ人は13歳になるとバル・ミツバと呼ぶ成人式を行います。半年前以前からラビや両親の指導により旧約聖書を読み、様々な戒律を学び一人前のユダヤ人として自立できる教育を集中して受けます。そしてその日は親戚も含め多くの人々に祝福されるのです。嘆きの壁の広場では週に二日バル・ミツバを行なう事が許され、誕生日に近い日を選んでラビの司式で祝福されます。今日も多くの子供がユダヤ教の正装をして祝福されていました。が、ここには母親であっても女性は参列できず、柵の外から女性たちが、しきりに子供の名前を呼び、大きな声で祝っていました。ユダヤ教もまた、女性に対し差別感があります。
この後、エルサレム近郊のベツレヘムへ向かいました。
ベツレヘムはエルサレムから約10キロ南に位置し、車で30分ほどのところでした。旧約聖書にもたびたび登場する古い町で「ダビデの町」と云われ、救世主が出現するところとも信じられていました。そしてイエス・キリストがこの地で誕生し、今では聖誕教会を始めキリスト教各派の教会が建ち並び世界中から巡礼者の集まる聖なる町となりました。
プロジェクト参加者と父兄このベツレヘムのすぐ手前のひなびた町ベジェラが今日の目的地です。この町にイスラエル・パレスチナ紛争遺族会パレスチナ事務所があり、そこで昨年の綾部中東和平プロジェクトの参加者と再会をする事になっていました。
イスラエルの高校生達は試験中で参加できないという事でしたので、せめてパレスチナの子供の参加がしやすいようにとの配慮でパレスチナ自治区のこの事務所を会場にしました。
引率の二人、そして今年から大学生になったパレスチナの3人、そして父兄の方々を含め全員で10人が参加してくれました。父兄からはこのプロジェクトに対する感謝と賛同の意見が寄せられ、継続への強い要望が寄せられました。
あっという間に予定の2時間は過ぎて、後ろ髪を引かれる思いでしたが、子供達の声に送られて再びエルサレムに戻りました。
アブサロムの墓ホテルへの帰り、旧市街の東側のケデロンの谷に、ひときわ目を引くとんがり屋根の塔を見に寄りました。車を降りて、でこぼこの坂道を5分ほど歩きます。ここは塔とは云うものの大きなお墓でした。ダビデ王の息子アブサロムが、父王の愛情を受けながらも反逆を続け、ついには父の命により命を奪われたとの言い伝えが残されています。
ユダヤ人の家庭では子供がわがままを言うと、この墓の前に連れて来て「わがままをするとこのアブサロムのように末路は哀れになる」といって諭し、躾けをするのだそうです。
ユダヤ人の結婚式では、式の最後に新郎がコップを足で踏み割ります。紀元70年にユダヤ民族はユダヤ王国の信仰の中心であったユダヤ第二神殿を破壊され、民族が離散しましたが、そのときの屈辱を、結婚という至福のときにこそ思い出させ、2000年もの間、伝え継いできました。家庭でのしつけも歴史を教訓とするユダヤ人の一面を見た思いでした。
今夜は8時過ぎに紛争遺族会のアーロン氏がホテルを訪ねてくださる事になっています。
◆7月1日
昨夜、ホテルにイスラエル・パレスチナ紛争遺族の会の国際担当アーロン氏とホテルで会いました。彼とは2003年綾部プロジェクト以来のお付き合いで、紛争遺児を綾部に招待するについて大変お世話になった人です。
今年の中東和平プロジェクトは中止になりましたが、これについて、アーロン氏は「日本は津波と原発事故で大変な事態になり、心からお見舞い申し上げます。私たちも物心両面にわたって出来るだけ日本を支援したいと思っています。大本も綾部市も今年は現地の人々の将来に早く希望が持てるよう、復旧、復興に全力を尽くしてください。ただ、来年以降はなんとかプロジェクトが再開できるようお互いの知恵を集めて考えましょう。このプロジェクトはイスラエル、パレスチナに於いても大変評価の高い事業です。よろしくお願いします。」との事でした。
今までの交流の歴史を振り返りながら、遅くまで思い出話に花を咲かせました。
さて、今日は7月1日です。
旧エルサレム駅 朝一番に、矢野さんと二人で霊界物語64巻(上)を拝読しました。そして午前8時からの日程の最初に、宣伝使ブラバーサが初めてエルサレムの地に降り立った、「エルサレムの停車場」に行って見ました。オスマントルコ時代にエジプトと現在のシリアのダマスカスを結ぶ鉄道が敷設された時に建設された駅でしたが、残念ながら1990年代の末頃に廃線になり駅もなくなっていました。
しかし、駅の玄関口にあたる所に当時を彷彿とさせる大きな看板絵が5、6枚描かれていました。駅に向かう人々、駅の改札からおりてくる人々、そして車窓から見送る人々に手を振るの姿が鮮やかに描かれていました。
「カンテラ駅からエルサレム行きの軍用列車に乗り・・・・そしてバハーウラーと別れてエルサレムの駅に降り立ちシオンの白を正面に見ながらエルサレム市外に向かうブラバーサ。」
そんな姿が目に浮かぶようでした。
アメリカンコロニーホテル玄関にてその後、アメリカンコロニーに立ち寄りました。2000年のテルアビブでのエスペラント世界大会の訪問団に参加された方はご承知ですが、今は重厚なホテルに生まれ変わっています。玄関ロビーの次の広間にはスパッフォード師や関係者の写真、当時の記録が展示されています。実在したアメリカンコロニーに改めて感動し、宣伝使のブラバーサやマグダラのマリア、スパッフォード師の格調高い演説をに想いを馳せました。
こちらは乾期で今日も抜けるような青空です。日本ほど湿度が高くないので日陰に入ればさわやかな風を楽しめます。
この後、ヤッフォ門から旧市街に入りました。そして外壁に登り、そのまま10分ほど歩いてダビデの塔と呼ばれる要塞まで足を伸ばしました。伝説では、紀元前20年にヘロデ王が要塞を築いたとき、この場所に3つの美しい尖塔が建っていたと伝えられています。いまは、残念ながら尖塔を見る事はできませんが、尖塔の建っていた下の建物の中にユダヤ王国、ユダヤ民族の歴史資料館が設置されていました。そこでは、カナン時代、ダビデ王、ソロモン王から第一神殿時代、バビロンの捕囚を経て第二神殿時代、ローマ時代からビザンチン時代、十字軍、オスマン帝国イギリスの統治時代、ナチス・ドイツによるホロコーストから現在への4000年の歴史が一目瞭然でした。
パレスチナの土地がアフリカ大陸、ヨーロッパそしてアジア大陸の要衝にあること、さらにエルサレムが三つの一神教の共通の聖地である事、そしてユダヤ人がキリストを十字架にかけたとされる憎悪から、歴史上まれにみる聖地の争奪とユダヤ人の差別と迫害の歴史が浮き彫りにされ、私たちはその悲惨さにただ嘆息するのみでした。
7月1日午後から、あらためてベツレヘムを目指しました。ベツレヘムから南東5キロのところに富士山のような形をした小高い丘があります。この丘も周囲の土地も緑豊かであれば長野の皆神山を思わせる山脈十字形の地形です。
遠くエルサレムや死海も見渡せる要衝の地に2000年前にヘロデ王が要塞を築いたのです。規模的には死海のそばのマサダの要塞には及びませんが、沐浴場、貯水槽、食料庫を備え襲撃された場合の迷宮の世ジュな地下道を縦横にはり巡らせていました。
紀元70年ローマ軍にエルサレムの第二神殿を落とされた後、敗走したユダヤ人がろう城したようです。要塞の中には直径約30センチの球形の石が無数に散乱していました。巨大な梃子で石爆弾に使用したもので、かなりの攻撃を受けた様子が見受けられました。またこの要塞の中腹にヘロデ王が埋葬されている事がヘブライ大学の最近の調査で明らかになったようです。
次に私たちが向かったのはヘブロンです。イスラエルは1967年の第三次中東戦争でこの町を占領下に置き、以来ユダヤ人の入植を進めてきました。当然この地にはアラブ人が先住していた地域なので、ユダヤ人の移住が盛んになれば自然と両者の対立は激しくなり、インティファーダと呼ばれるアラブ人の抵抗運動が激化し、今でも時々ニュースになっています。今日も途中、イスラエル軍の装甲車が数台、道路わきに止まっていて、何人もの兵士が銃を構えて、周辺をうろうろしていました。
どうもアラブ人の投石を受けたようです。金曜礼拝で集まったムスリムが行動を起こしたもの裸子のですが、この後は必ず軍が過剰に反応するそうです。こうしていつまでも報復の連鎖が止まらないのです。
このヘブロンは旧約聖書では、キリヤット・アルバア(第四の町)という名で出てきます。最も古い町の一つとして古文書に書き留められている所です。そしてこの地にはマクベラの洞窟と呼ばれるアブラハム、イサク、ヤコブとアブラハムの妻の墓があります。
創世記によるとアブラハムがヘブロンで亡くなった妻サラのためにヘテ人から銀400シェテルでこの洞窟を買い、葬ったされる所です。アラブ人にとってもユダヤ人にとっても大事な場所なので,厳しいセキュリティチェックを受けて中に入りました。礼拝堂を通り、その奥に4人の墓がありましたが、多くの参拝者で埋まっていました。墓といっても立派な大きな絨毯様の覆いをかけられた棺が安置されているだけの質素なものでしたが、ピント張りつめた空気はたたずむ人々をして、自然に頭を下げさせるほどの荘重な雰囲気でした。
アブラハムの墓前で祈る人々 アブラハムはイスラム教徒にとっても尊崇される対象である為、私たちが入ったユダヤ人用の入り口とは別の所からイスラム教徒は入場し礼拝するような構造になっていました。ヘブロンはセキュリティの関係で行く事が出来ないと思っていただけにアブラハムのみたまのご加護と感謝の気持ちで一杯でした。
ユダヤ教にとっては、金曜日の日没から安息日が始まります。この安息日の夜の礼拝に参拝すべくヘブロンを後にし、エルサレムに戻りました。ホテルから車で7、8分の所にエルサレム・グレート・シナゴーグ(礼拝所)があります。
ここはエルサレム市内に470あるシナゴーグの総本山です。矢野さんと二人、キパをかぶり少し緊張しながらシナゴーグに入りました。ユダヤ教徒でなくともキパと云う小さな帽子をかぶれば参拝できます。ただし携帯電話は厳禁です。日没時間にあわせ7時35分から礼拝が始まりました。カトリックのような整然とした式ではなく、中には座ったままの人もいるような一見不統一なまま祈りが進みます。
トーラーという旧約聖書の中でもモーゼ五書と云われる部分の朗詠と讃美歌のコーラスがあり、その後個々の祈りがあり、式は約30分で終わりました。
ユダヤ人の参拝者は子供に至るまで正装、真剣な様子で今まであまり体験した事のない荘厳な雰囲気を体験しました。
◆7月2日
7月2日、 今日の日没までがユダヤ教の安息日です。エルサレムの町中は、大変静かで特にメア・シェアリームと呼ばれる正統派のユダヤ人達が住む区域は車一台見かけません。戒律の中でも重要な安息日は一切仕事はせず、朝、モスクに行って礼拝し、家族で聖書を読み、神様のご恩寵に感謝して過ごす一日なのです。この日は、電気も火も使えませんので食事もかなり制限されます。
5年前テルアビブのホテルで安息日に出くわしました。エレベーターに乗ろうとボタンを押したところ、ドアの開いたエレベーターの中に老夫婦が乗っておられました。そして「あなた方はユダヤ人ではありませんね。11階のボタンを押していただけませんか」頼まれました。そのホテルには安息日(シャバット)用のエレベーター(自動的に各階に停止する)がなかったので、その労老夫婦はボタンを押してくれる人が来るまで、じっと待っていたということです。
また、こんな極端な例もあります。紀元前1000年以上も前のことのようです。異民族との戦争の最中に安息日に入り、ユダヤの兵が武器を擱き、戦うことを止めたため皆殺しになったことがあったそうです。さすがにそれ以後は命にかかわる場合は例外が認められるようになったとのことです。
そんな静かな町を、私たちは車を飛ばし、一路北部ゴラン高原の水源地を目指しました。
私たちは出発前に教主さまから「金命水」と「玉水」をお預かりしました。イスラエルが接する海へと流れでる川に注ぎ清めるようにとのご指示をいただいていました。
20世紀は化石資源を巡って国家主権がせめぎあう時代でした。しかし、21世紀は水を巡る争いの世紀だと云われています。
例えばイスラエルではガリレア湖や死海の水位が毎年下がっているそうです。特に死海は今から20年前と比べると約10メートル水位が落ちています。すなわち、このままでは飲料に資する水は減少の一途です。一方で人口は増加し、水需要は増加するという慢性的、危機的な水不足に陥っているのです。
1967年の中東戦争でイスラエルはシリア領であったゴラン高原を占領しましたが、今日あるを予期しての水源地確保であったといえます。
世界連邦のシカゴ草案は、人類の生存に欠かせない空気、水、地下資源は人類共有の財産とする事が戦争の原因を取り除く一つの道である事を明らかにしましたが、まさに中東の現状は国家エゴの縮図と云えます。
バニアスの泉 そんなゴラン高原を車で走らせ、隣接するヘロモン山の麓のバニアスの泉に着きました。 エルサレムから車で4時間の距離でした。
ここはゴラン高原、ヘロモン山の雪解け水が湧出するイスラエル最大の地域をカバーする水源地です。ここから湧き出る水がガレリア湖を満たし、ヨルダン川に注ぎエルサレムを含むイスラエルの南の方まで水を供給しているのです。
この水源地の、その源で平和を念じつつ、ご神水を注ぎ神言を奏上させていただきました。傍らではキリスト教の巡礼者ともおぼしき10数名の団体が讃美歌を斉唱しておられました。あたかも、我々と祈りを共にするかのように。
◆7月3日
翌7月3日、今日は日曜日です。しかし、イスラエル、ユダヤ教社会では休日ではなく出勤日であります。一昨日お会いしたムンサル・ダジャー二教授が巨体を揺すりながらホテルに迎えに来てくださり、議長府のあるヨルダン川西岸のラマラへご案内いただきました。
エルサレムのイスラムのグランド・ムフティ ムハンマド・アハマッド・ハッサン師とイスラム最高裁判事のシェイキ・ユスフ・イデッシ師に面会する為です。ラマラまで通常15分もあれば十分な距離ですが、今は、幹線道路の中央に分離壁が築かれ、遠回りを余儀なくされ倍以上の時間を要しました。
パレスチナ住民の生活と土地を分断し、ユダヤ人の入植地の安全を図るというまさに有形の障壁そのものでした。至る所に分離壁と高圧電流を流している電気柵が張り巡らされている光景は異常そのもので不信と憎しみの象徴でもありました。
グランドムフティー師(中央)と ラマラ市内のイスラム事務所にハッサン師を訪問しました。小柄ではありますが温和で、物静かなしかも存在感のある素晴らしい聖職者でありました。自己紹介を兼ねて大本の教えと活動について説明をさせていただくと、一語一語吟味するかのような口調で、イスラムの教えの平和性、寛容性、平等性について語られ、大本の教えと活動について共通する部分の多さと期待感を述べていただきました。事前に師は穏健派の代表格と聞いていましたが、体全体からその事を感じ取ることが出来ました。
大本、日本へのご招待を打診しましたが、大本への関心は勿論のこと、広島、長崎の原爆さらに3・11の東日本大震災、原発の事故には人類の一員、宗教者の一員として責任を感じるともお話しになり、条件が整えば検討したいとのお気持ちを表明されました。
実現すればエルサレムからのグランド・ムフティの来日ははじめてのことになります。
イデッシ師(中央)とダジャーニ教授(右) 引き続き、イスラム最高判事を訪ねました。緊急事態が発生したとの事で、約15分程度しか時間が取れず、早々に辞去しましたが、今後とものパレスチナ独立への日本政府、日本宗教者の理解と協力について要請を受けた形になりました。西岸地区の様子を見るといたたまれない気持ちもありますが、一方で自治政府官僚の大邸宅を目にし、一部高官の腐敗ぶりの一端を垣間見ると、今のままでは神様もお許しにならないのではとの思いも湧いてきます。
5年前にも一度ラマラへ入った事がありましたが、当時とは町の様子が大きく変化していました。イスラエルの入植地が拡大し、ユダヤ人の赤煉瓦の屋根の家屋が増えていた事。ラマラ周辺で高層の住宅等の建設が進み一見豊かな発展を遂げているように見える事、しかし実際は貧富の差が拡大し、世界からの財政支援なくしては立ち行かなくなっている地域になりつつあることなど。複雑な思いでエルサレムに帰って来ました。有形、無形の障壁、そしてエルサレムは、イスラエルは世界の、いや1人の人間の縮図だと改めて感じた次第です。
明日はハイファにティコティン美術館イラナ・ジンガー館長を訪ねるとともに地中海へ通じる川にご神水を注がせていただきたいと思います。明後日、エルサレムを発ち、テルアビブ空港から帰国の途につきます。
渡航期間 6/28-7/6
