ノモンハン1 of aizenkai



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★モンゴル・ノモンハン紀行
「ハルハ河東岸・往復2千キロ草原の道」(その3)

その1 出発


山崎 光男

 6月25日(土)夕刻、東京からAさん(88歳)一行6名がウランバートル空港に到着した。Aさんは65年前、ノモンハンで多くの戦友を失った。他のメンバーも60歳を越えた年配の方々で共にノモンハン慰霊の旅を志してきた。

 私は予てから、この旅を企画したETT社のアンハー専務から「山崎さん、一緒に行きませんか?」と度々誘われていた。
「それはよいですね。絶好の機会です」と気軽に返事をしておいた。私自身は目的地まで片道千キロと知ってはいたが、舗装道路を高速で走りぬけ、途中のホテルで熱いシャワーや食事をいただきながら快適な旅ができるものと思い込んでいた。
 わたしの返事があまりに軽く感じられたのであろう。アンハーは本気にはしていなかった。

 当初、この旅は全区間を車で往復する予定であったが、ウランバートルからチョイバルサン(3分の2行程ほど)まで往復国内便が出ることになった。当然、参加者は喜んだ。
 ところが途中で往路だけしか便が出ないということになった。そして、出発の間際になって、さらに往路も便が欠航となった。普段は温厚なアンハーも激怒してしまった。航空会社は何の謝罪もしなかったらしい。日本ならば補償問題になっただろう。
最初の計画に戻すしかない。アンハーの決断は早かった。あいかわらず私は、起伏に富んだ草原の道・2千キロを走行するということが、どういうことか全く理解していなかった。

  出発を目前に控えて「山崎さん、明日出発です。本当に行くんですね?」とアンハーが念を押した。「あー、行きますよ。何時に出発ですか?」「11時ごろになるでしょう」と彼が応じた。
 翌朝8時に起床して朝食を準備し始めたとき、彼から携帯電話に連絡が入った。
「今から出発です。山崎さんのアパートに来ています。」
私はあわてて洗面具と着替えをバックに突っ込み、アパートを飛び出した。「これもモンゴル式なのだろう」と自問しつつ。

  日本からの一行はフラワーホテルに昨夜到着していた。Aさんの他に男性が一人、残り4人は女性であった。新彊ウイグル自治区のウルムチやタクラマカン砂漠に行ったことのある女性もいた。それなりに旅慣れした方々なのであろう。
私は急いでホテルのトイレに駆け込み朝の用便を済ました。目の前にトイレットペーパーが1巻あった。私はそれをバックに入れた。草原で済ますときには必需品となる。

 午前9:30、ETT社社員を含めて13名が2台の車に分乗しウランバートルを出発した。トヨタのプラドと三菱のデリカにはキャンプ用具や食料、飲料水などが積み込まれ、どちらも太いラジアルタイヤを装着していた。プラドはアンハーの弟エンヘがハンドルを握った。デリカは兄のアンハーが運転することになった。もちろん交代要員などはなかった。毎日10時間以上のぶっ続けのハンドル操作であった。


草原に入る


 ウランバートルを出発すると1時間ほどで舗装道路がなくなり草原の道に入った。2筋のタイヤの跡がどこまでも続く。なだらかな丘陵地帯には遊牧民のゲルが点在し、馬や羊などが長閑に草を食んでいた。
 しかし、草原には一ヶ月前から雨がないのだという。それで、後ろの車は前を走る車の土ぼこりをもろに被ることになった。めったに対向車もない草原の道を2台の車が、ものすごい土ぼこりを巻上げながら疾走した。運転手は穴ぼこを避けるためにハンドルを左右に切らねばならない。

 今夜の宿泊地モーンハン村まで400キロぐらいはある。途中にあるのは草原だけ。トイレ休憩する時間も惜しみながら、ひたすら走り続けるしかない。日差しは強くウインドウを開けざるをえない。風向きによって自車の巻き上げるホコリを幾度も被った。みんなの髪の毛がジャリジャリとなった。10時間も走ったろうか。ようやく村らしいものが見えてきた。

  アンハー兄弟の故郷ムンフハーン村だ。プラドを運転していたエンヘが板塀で囲まれた一軒の家に向かった。中から若い女性と2歳ぐらいの男の子が出てきた。お嫁さんだ。ロシアの小説に出てきそうな牧歌的風景だった。子どもを抱かかえたエンヘが、「俺の子どもだー」と大きな声で叫んだ。劇的な妻子との再開であった。何ヶ月も別れていたのだろう。何度も子どもの頬にキスをする男親に「モンゴル人の素顔を見た」という思いでいっぱいになった。

 わが身をひるがえれば、自分の子どもに、あんな風にキスをしたことがあっただろうか。日本人は感情を素直に表現しないしできない。周囲の体裁をきづかって平静を装ってしまいがちだ。これも民族文化なのだろう。
 私は内心羨ましく思った。あの広大な地平線まで真っ青の草原に暮らしている人々にとって、感情を押し殺すなんて意味を持たないにちがいなかった。元来、周囲には馬や羊がいるだけなのだ。
  宿泊先は村にある幼稚園になった。園長さんの特別の配慮であった。ただし、シャワーなどはもちろんなかった。貴重なミネラルウオーターを少し手の平に落として目の周辺を洗うのである。汗と油とホコリで手ぬぐいが真っ黒になった。とんでもないところに来てしまったと一瞬思ったが、旅は始まったばかりであった。

 ローソクの明かりで夕食を済ませたころ、アンハーが心配そうに話しかけてきた。この一ヶ月間、村に雨がないのだという。このままでは村が砂漠になってしまう。
「山崎さん雨乞いをやってもらえないか? 村人が困っている」というのである。
 私は「天地の運行は神の御裁量のままだ、人間の都合や思惑の入る余地などあるはずもない」と思ってはみたものの、現実に村人は困っていた。アンハーも村人を思って真剣だった。どう見ても冗談ではなさそうだった。ちょうど、空気が湿っているように感じられたので2.3日後には雨になるだろうと期待を込めて言ってしまった。この日は歯も磨かずに寝袋に入り天津のりとを奏上しながら就寝した。

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